白糸馨月

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お題『水たまりに映る空』

「最近、田中さん見かけませんよね」

 社内でもうだつが上がらない田中は今、どうしているか知らない。
 俺にとってはどうでもいい話だ。田中がいつも上司に怒られようと、仕事を押しつけられようと。
 今の悩みは人生が退屈であることだ。
 仕事はそこそこうまくやれている。ただそれ以外なにもない。
 唯一の趣味は異世界に転生したり、転移したりする小説を読むことだ。こういう小説を読むことで退屈じゃない日常を送れるだけでなく、強大なスキルを手に入れたり、人からモテたりするんだよなと願ってやまないのだ。

 今日も定時で上がり、なにごともなく帰宅しようとしてふと、雨も降っていなかったのに大きな水たまりを発見した。

(もしかしたら、俺はこれを使って異世界へ行けるのでは?)

 そう思った瞬間、俺はそこに向かって飛んだ。
 びしゃ。
 水たまりには俺のアホ面と夕暮れ時の空がうつるだけ。

 ふと、俺はこの時になって田中を思い出す。
 田中は多分、異世界に行ったんだろう。会社では仕事ができないくせに、いいように使われているくせに、あっちの世界ではきっと英雄になって、ひょっとしたら努力しなくてもモテているかもしれない。

「畜生っ!」

 俺は再度飛び上がった。スラックスに水がかかるだけ。
 しばらく俺はその場で退屈な生活から抜け出すための執念をスーツを汚しながら燃やし続けたのだった。

6/6/2025, 3:42:21 AM