小説ってのは本当は自分以外の人、所謂他人や、要するに自分自身以外の事柄その存在からつけてもらった傷を、そのアリヨウを説明というか説く ... その傷説を、小説と呼ぶような気が昨今はしている。
昨日会話した若い女性がうっとりした目で私を見つめて来たたので私は咄嗟に目線をずらした。危うく目が合うところだったがぎりぎりで目を合わさずにやり過ごせた。こういう瞬間に目を合わせるのはブラジャーの肩紐の片方を肩からずらし落とすようなものだと私は考えているので妙に意気投合し過ぎた時は必ず目を合わせないようにしている。私は、孤独で居なければならない人なので。
夜のカーテンと聞いて私以外の人は何を想像するだろうか。私には夜のカーテンは不倫だ。浮気もかな。いや、浮気は違うな。浮気は恋人と歩く菜の花畑を舞いそして去る蝶に目を奪われるような所作だ。夜のカーテンは捲る必要が無い。なのになぜか気になって捲ってみたらキラキラした街のネオンが目に映り心が騒つく。だから私は絶対に夜のカーテンには触れすらもしない。時の、ムダ遣いをしたくないのでね。
いつか本当の ... いや、究極のプラトニックラブストーリーを描きたいと思っている。キスすらもない。手繋すらもしない。だが、抱擁と涙だけある ... 。要は、赤い心たる恋は無い、愛情のみで描くあくまでも男女のラブストーリーだ。マッチ売りの少女みたいであったりかも知れないし、要は極寒と炎 ... ん〜、やっぱり慮い遣りの極致を辿ると氷床に座し火炎の内に住す大日大聖不動明王の大慈悲に着く。でもね ... その神ならぬ人故その悦楽在って子孫繁栄しそして死わりも在る ...... 。でも小説は ... 傷説は ... どう在るべきか ... ... ....... 悩ましいのである。でもね、描きたいのである。垢太郎だとかコウノトリが籠に入れて夜中夜空を飛んで云々みたいな ... 。やっぱり寂しくなるんだよ。折角の慮い遣りが愛情から恋慕は良いとしつつ接吻性交悦楽に成れ果てて飽きてお釣りみたいに子孫誕生 ... 。私は、5月下旬の僅かに荒れるの如き風に踊らされ続ける道草の舞が好きなのである。濡れない侭のすがすがしさに在りたい。老いたからなのかなぁ。
11/16/2024, 1:00:17 AM