茜色

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「かずくん、私ね、ネモフィラの花が好きなの」
このカフェおすすめの紅茶を飲みながら、恋人の百合子が何気なく呟く。
「そうなんだ。初めて聞いたな、なんで好きなの?」
「花の見た目も大好きなんだけどね、ネモフィラの花言葉が一番好きなの」
「花言葉?」
「そう。ネモフィラの花言葉はね、『あなたを許します』なんだって」
「なんというか…優しい花言葉だな」
あの青い花にそんな意味があったとは。考えた奴はかなりのロマンチストだな。
「うん、優しいよね。でも、私はとても身勝手で、傲慢で、一方的な宣言のようにも思うの。許されたくない人達には、死刑宣告と同じよ」
「そこまで言うか」
百合子の口から普段は聞くことのないきつい言葉の羅列に面食らう。
「だからねかずくん、私、あなたにネモフィラを贈るわ」
「え?」
「自分に言い聞かせたい部分もあるのだけれど、私はもう、あなたを忘れて幸せになりたいの」
「えっ、どう言う意味だよそれ!」
これまで仲良くやってきたつもりだ。百合子のことも大事にしてきたし、来月プロポーズもするつもりだった。
一体なぜ。
「端的に言うとね、別れたいのよ、かずくんと」
「だからなんで!」
「私ね、今は星川百合子って名前だけど、お母さんが再婚するまでは『白波百合子』って名前だったの」
「白波…まさか…」
嘘だ。嘘だ。そんなはずがない。あいつにきょうだいはいなかったはずだ。
「そのまさかよ。あなたが小学生の時にいじめて自殺にまで追い込んだ、白波勇人の妹が私なの。私は小さい頃身体が弱くて、ほとんど学校に来ていなかったから、妹がいることを知らない人も多かったみたいね」
「そんな…嘘だ…なんで…」
勇人は俺と、俺の友達で確かにいじめていて、ある日の朝、勇人が自殺したのを知った。
勇人の両親は、俺を責めなかった。ただただ、もう関わってこないでくれ、そう言って涙を流していた。
人を殺してしまったという恐怖と罪悪感で頭がおかしくなりそうだったあの日々の感覚が蘇り、身体が震える。
「嘘でもなんでもないわ。最初は兄を殺したあなたに復讐しようと思ったわ。私自身と、亡くなった私の両親のためにもね。でも、あなたは今まで会った誰よりも優しくて、まっすぐ私に愛情を注いでくれて…私、どうしていいかわからなくなってしまったの。あなたに死んで欲しいと願えるほど、あなたのことを嫌いじゃなくなってしまったのよ。だから、あなたを許して、私の心からあなたの存在を消して、あなたと離れて、兄が最期に私に望んだとおり、なんの憂いもなく幸せになりたいと思ったの。ネモフィラの花を贈るのは、今の私にできるあなたへのささやかな復讐よ」
ぼろぼろと大粒の涙を流しながら語る百合子が、ネモフィラの花のしおりを俺に渡してきた。
力の入らない手で、俺はそれを静かに受け取った。
「あなたが消えない事実に苦しむたび、私が花言葉のとおりあなたをもう許し、忘れていることを知るといいわ。『今は』優しいあなたにとって、責めてくれる人がもうどこにもいないと知るのは何より辛いんじゃないかしら」
「…」
「何も言わないのね。もういいわ。私はあなたに言い残すことはないし、この街も出る。さようなら」
カタン、と椅子を動かして、百合子が立ち上がり去っていく。
俺に百合子を追う資格はない。項垂れ、百合子の残したしおりを眺める。
ふとしおりを裏返すと、百合子の綺麗な文字があった。

「どうかあなたも幸せにーーー」

俺は大人になって初めて、大声をあげて泣いた。





テーマ『幸せに』

3/31/2024, 11:07:10 AM