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お題:幸せとは

 冷たい雨音が、静かにベランダを叩いていた。
 七海はソファに座り、ノートパソコンを閉じる。仕事は終わったが、頭の中はまだ現実に追いついていなかった。
「七海サン、ココアでいいですか?」
 キッチンから声がする。猪野は部屋着のまま、リラックスした様子で鍋をかき混ぜていた。
「ありがとうございます。……寒い日は、甘いものがありがたいですね」
 マグを受け取ると、指先にじんわりと熱が伝わる。七海はふっと息を吐き、肩の力を抜いた。
「今日は、疲れてます?」
「……ええ。少々」
 嘘はつけなかった。猪野は何も言わず、七海の隣に座る。そして、そっと肩に頭を預けた。
「俺、七海さんが弱ってるときに、こうしていられるのが好きです」
「それは……あまり格好のいい話ではありませんが」
「いいんです。俺にとっては」
 七海は一瞬迷い、それから猪野の髪に手を伸ばした。柔らかい感触に、胸の奥が静かに緩む。
「……幸せとは、もっと大きなものだと思っていました」
「今は違うんですか?」
「ええ。……今は、誰かに寄りかかってもいいと思えること。それ自体が幸せなのだと」
 猪野は顔を上げ、真っ直ぐに七海を見る。
「じゃあ、俺は七海サンの幸せの一部ですね」
「……そうなりますね」
 少し照れたように視線を逸らしながらも、否定しない。その様子が嬉しくて、猪野は笑った。
 雨音は次第に弱まり、部屋には二人の呼吸だけが残る。
「七海サン、明日も任務でしたっけ?」
「ええ。しかし、帰る場所があると思えば、悪くありません」
「じゃあ、俺は明日も明後日も、ずーっとここにいます」
「それは……心強いですね」
 特別な言葉は要らなかった。こうして並んで座り、同じ時間を過ごすこと。
 それが、二人にとっての「幸せ」だった。

1/4/2026, 12:28:05 PM