アシロ

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 私は健忘症を患っている。何がきっかけだったのか、それすらも忘れてしまったのだけれど、昔の記憶だったり過去のクラスメイトだったり、色々なことが頭からすっぽり消えて自分の中では無かったことになっている。自分ではそんなに深く考えていないし、深刻に捉えているわけでもないのだけれど。
 だって、忘れて無くしてしまったものってきっと、私にとって必要なかったものだと思うんだ。本当に大事なことは、何をされたってどんな体験をしたって身体に刻み込まれて消えないものだと思っているから。
 でも、少しだけ複雑な気持ちになる時もある。私にとっては初めましての相手から突然話し掛けられる時。お相手は凄く驚いた顔をしながら「久しぶり」だとか「自分のこと覚えてる?」だとか言ってくるのだけれど、残念ながら私はその人達のことを知らないわけで、気を利かせた返事をしてあげることが出来ない。彼ら、彼女らは私の病気についてなんて知らないはずだから、私が困ったような笑みで回答すると目に見えて残念そうな顔をして、「そっか······」と肩を落としてしまうので、そんな様子を目の前で見ていると流石に心苦しいというか、申し訳ないなぁって気持ちになってしまう。でも結局は今の私にとってはただの他人なわけだし、上手く嘘をついて相手の話に合わせ続けるなんて芸当は私には難しいと思うし、だから私は正直に「知らない」「わからない」ということを伝えることしか出来ないんだ。
 大体の人は私のその反応を受けて去っていくんだけど、一人、そんな私に何度も声を掛けてくる物好きな人が居る。本当に何度も、何度も、何度も。流石に顔はうっすら覚えてきたんだけれど、名前はすぐに忘れてしまう。快活に話し掛けてくる、笑顔と髪色が眩しい同世代ぐらいの男の子。
 初対面の時には他の人達と同じように「俺のこと覚えてる~?」と気さくに話し掛けてきた。けれどもやっぱり私にはただの知らない人にしか思えなかったので、いつもと同じように対応した。もう、慣れたものだった。他の人達と彼が違ったのは、その後の反応だった。
「ん-、やっぱそうだよね~」
 そう言い、私が告げた事実をサラリと流したのだ。今までの人達みたいに意気消沈するでもなく、残念そうな素振りを見せるでもなく。そうして矢継ぎ早に、彼は続けたのだ。
「じゃあ、今日からまた改めて俺のこと覚えてよ! 俺ね、●●●●ね!」
 彼はあろうことかそんなことを笑顔で私に告げ、名前を名乗ったんだ。残念なことに、私はどうしてもその名前を覚え続けることが出来ないのだけれど、確かにあの時彼は彼の名を私に向け教えてくれた。また私が忘れてしまう、とは考えなかったのだろうか? 実際、私は未だに彼の名前を覚えられないというのに。
 何度目かに話し掛けられた時、私の心苦しさは限界を突破して、つい彼に病気のことを話してしまった。あなたが何度話し掛けてくれても、名前を教えてくれても、一度すっぽり忘れてしまっていたということはまたいつか同じように忘れてしまう日が来てしまうかもしれない。だったら今あなたがしていることは、この時間は、無駄なものだと思う。······確か、そのようなことを切々と私は彼に訴えた。
 それを聞いた彼は一瞬、深刻そうに表情を曇らせたのだが、しかし次の瞬間には雲間はスッキリと晴れ、いつもの太陽みたいな笑顔でこう言ったんだ。
「俺にとっては無駄なことじゃないし、もしもいつかまたお前が俺のこと忘れても、またこうやって自己紹介から始めるから気にすんなって!」
 何で。何であなたはそんなに眩しく笑うことが出来るんだろう? 何でそこまで私に時間を使ってくれるんだろう? 私、あなたにとってどんな存在だったの? とっても仲の良いお友達だったの? でも私には何もわからない。何も記憶にない。一体いつ何処で彼と出会って、当時どんな間柄で、どんな会話をして、どんなふうに共に過ごしたのか。
 私の中からすっぽりと抜け落ちたもの。私はそれを“必要のないもの”だと解釈していたし、今でもその思想に変わりはないんだけれど······でも、それでも、以前の彼と自分のことについて知りたいと思ってしまった。もしかしたら明日にでも忘れてしまうかもしれないけれど。それでもいいから“今”、知りたいと思ったんだ。
「ねぇ」
 私は彼の着ている制服の学ラン、その袖を軽く掴み、引っ張る。
「昔の話、教えてよ」
 目を丸くする彼の顔を下からジッと見つめ、無言の圧力をかけ続けたら、彼は簡単に折れてくれた。
「わぁーかったって。でもこんな人通り多いとこで突っ立ってとかじゃなくて、場所移動しよう?」
「ん、わかった」
 そうして私は彼の後ろをついていく形でその場から移動をする。した、のだが。
「ね、ねぇ······」
「んー?」
「話······昔の、私達の······」
 連れて来られた場所はファミレスでもなく、カフェでもなく、寂れた路地が続いた先にある空き地? みたいなところだった。放棄された工事現場、みたいな印象も受けた。置きっぱなしの重機があったり、大きな土管みたいなものが積まれていたりして、子供だったなら秘密基地にでもしていそうな。
 彼は入口に緩やかに垂れていた立入禁止を意味しているのであろうボロボロになった紐のようなものを何の躊躇いもなく跨ぎ、私の片手を引いたままズンズンと奥の方へと歩いていった。そうして、放置された重機の裏手へ回るなり、突然私の体を両腕で抱き締めてきた。ギュッと力強いそれに、息が詰まりそうな感覚を覚えた。
 そのままの体勢で何も話を切り出さない彼に痺れを切らし、私の方から話を振ったわけなんだけど。
「あー、ね? 昔の話ね。うんうん。いいよ、何でも話してやるし答えてやるよ、作り話で良ければだけど」
「つ、くり······ばなし······?」
 唖然とする私の耳元で彼はクツクツと愉快そうに笑う。
「お前、やっと見つけたと思ったらすーぐ学校転校しちゃうからさ、そのたんびに探すのめっちゃ苦労したわ~」
「転校······? 探す······?」
「懐かしいなぁ······帰宅するお前の後つけてさ、肩掴んで話し掛けると、お前すんごい怯えた顔してさ。その場から動けなくなっちゃうの。そのまま地面に座り込んじゃう時もあってさ、目に涙いっぱい溜めて、俺のこと見上げてくんの。あ~、本当に楽しかったなぁ~あの頃は」
「な、に······それ······うそ······」
「残念だけど今話したのは全部本当~。で? あれだっけ、俺たちがクラスでどんな会話してたかとか知りたいんだっけ? そういうのはたくさん妄想してきたからどれだけでも話せるし、このままお喋り続けよっか?」
「ゃ······い、や······」
「あ、そうだ。その前に」
 彼は密着させていた体を少しだけ離して、上から私を見下ろし、明るく溌溂とした声で告げた。
「俺、●●。●●●●。いつも俺に向かって、誰? って聞いてきてたでしょ? だからさ。俺の名前、呼んでよ。ほら。ねぇ、ほら。早く!!」
 それは、本当に私が知らない名前だった。
 その人は、本当に私の知らない人だった。
 その人との間に、思い出なんて綺麗なものは本当に存在していなかった。

 私は、この人を、知らない。
 ねぇ、あなたは、一体だぁれ?

3/2/2025, 4:14:33 PM