静寂の中心で
世界が崩れ落ちた時、耳が痛いくらいの静寂に包まれていた。
ーー【僕は、なんとかして竹さんを忘れようと思って、ことさらにマア坊のほうに近寄って行って、マア坊を好きになるように努めて来たのだが、どうしても駄目なんだ。】
ーー【けれども、いよいよ大戦争がはじまって、周囲がひどく緊張してまいりましてからは、私だけが家で毎日ぼんやりしているのが大変わるい事のような気がして来て、何だか不安で、ちっとも落ち着かなくなりました。身を粉にして働いて、直接に、お役に立ちたい気持ちなのです。】
ーー【笠井さんは、自惚れていたわけでは無い。いや、自惚れるだけのことはあったのかも知れない。いたずら。悪事が、このように無邪気に行われるものだとは、笠井さんも思っていなかった。笠井さんは、可愛らしいと思った。】
ーー【子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親の方が弱いのだ。】
僕が生きてきた世界とは遠くかけはなれた、人間が生きている世界のことを、僕はなにも知らなかった。
知らない。僕はなにひとつ知らない。その感情も。その激動も。欲望も。……親子の温もりも。
ーー【自惚れて、自惚れて、人がなんと言っても自惚れて、ふと気がついたらわが身は、地下道の隅に横たわり、もはや人間ではなくなっているのです。】
僕は自惚れていたことなど、一度もない。けれど既に人間ではない僕は、一体。
「……」
喉が動くも声にならない。乾燥した瞳は、冷たい世界を綴った文字を追いかけるばかりだった。
僕の胸の中に渦巻くこの感情は、なんなんだろう。
そう考えることさえ頭痛に邪魔されてままならない。
ーー死のう。死んで、生まれ変わって、最初からやり直そう。そうだ。それがいい。
耳が痛いくらいの静寂の中心に、僅かな音が響く。
部屋を歩く裸足の足音。引き出しを開ける音。大量の市販薬。水を汲む音。ヒートから薬を出す音。そして。水と共に薬を飲み込む音が、耳の奥で響いた。
何度も死に損なった僕は今、薬指の指輪を眺めながら、味のしないコーヒーを飲んでいる。
何年経っても、家族の絆や温もりなんてものは分からない。けれど竹原敦也に出会って、大学に通い、ひっそりと暮らしながら、人間社会の複雑な構図にはだいぶ慣れてきたし、理解出来る部分も増えた。
敦也は今日は来ない。仕事が忙しいらしい。
ひとりだけの部屋は、全く物音がしない。
ーー【「私はなんにも知りません。しかし、伸びていく方向に陽が当たるようです。」】
僕を包まれる静寂は秋の心地好い陽射しに包まれていた。
引用:太宰治著「パンドラの匣」「待つ」「八十八夜」「黄桃」「美男子と煙草」
10/8/2025, 6:54:27 AM