手垢にまみれた退屈が、お気に入りの絵本を傷つけた。
ほつれた糸にかまうことなく幾度となく新しい未来をめくるから、折れて傷つき破れてしまう。
その度に泣いて、その度に震える手で、その度に不器用に、透明を被せて補修した。
ギザギザに顔が欠けたお姫様。
キラキラな笑顔がかわいかったお姫様はいなくなってしまった。
己の無力さに、非力さに、小さな無色の水玉が物語の上に落ちる。
泡みたいに消えると思った無色の水玉は、薄汚れたシミとなって物語を侵し続けた。
*
昔から不器用だった。
壊れてしまったものは、自分では直せない。
幼いながらに自覚していたから、なるべく大事な物は丁寧に扱った。
赤い服を着た黄色のクマのぬいぐるみを、壊れないように抱きしめる。
手を伸ばしたら弾けて消えてしまうシャボン玉は、追いかけずに風に託した。
「ふたりはしあわせにくらしましたとさ。」と、幸せの先を教えてくれない意地悪な物語。
何度もページをめくるのはやめて、頭の中で「ふたりのしあわせ」の続きを暴く方法を探した。
大事にしたいくらい大切だから、傷つかないように宝物は丁寧に厳重に宝箱に仕舞い込む。
すると、ずっと大切にしていたお姫様が宝箱から飛び出してきた。
「おい。あんまり舐めるなよ? 私はそんなにやわじゃないから」
小さくてかわいいお姫様は、思っていた以上にお口と態度が悪かった。
「たかが紙切れ1枚、たかが1.6cmの内径で私をぶっ壊せると思ってる?」
違う。
あなたに鳥籠は相応しくない。
羽ばたく姿こそ美しいから、飛ぶための羽を剥ぎ取って飼い慣らしてはいけないと思っただけだ。
「こっちは最初から捨てないって決めてる。今さらひよって人のこと知ったふうな口きいて逃げられると思うなよ?」
でも、あなたは苦しそうにしている。
俺の苗字が、あなたの足枷になっているのは明白だ。
彼女の言葉ひとつひとつ、必死になって訴える。
溺れそうになりながら苦しそうにもがく姿は見ていられなかった。
しかし、彼女は取り合わない。
「うっさい。いつもみたいに泣いて喚いて縋りついて、デカい巨体全体重乗っけて根性見せてみろ」
そんなことしたら小さなあなたは簡単に折れて壊れてしまう。
俺のせいで、大切な宝物が動かなくなるなんて耐えられるはずがなかった。
「簡単にぶっ壊れないってちゃんと証明してやるから、その薄汚れたクソ眼鏡をさっさと新調してこいクソったれ」
クソって言った……。
しかも2回も。
唖然としていると、彼女はふわりと柔らかく微笑んだ。
「ちゃんと見てて。ちゃんと背負ってちゃんと飛んで、ちゃんと全世界を見下してやる。望めば全部思い通りになるって、人生を舐め腐った顔でへらへら笑ってみせるから」
いくらなんでも性格が悪すぎるだろう。
表情と言葉の内容があまりに乖離しすぎていて、脳内でどう処理をすればいいのかわからなくなった。
それを隙だと判断したのか、ニヤリと彼女の笑顔が不敵に変わる。
「知らないと思うけど、勝負ってのは性格の悪いヤツが勝つ仕組みになってるんだよ?」
……それは、知っている。
だって傲慢で不遜なこの笑顔こそ、彼女が一番イキイキウキウキ輝いている瞬間だ。
「私をみくびって侮って売られた喧嘩なんかに、私は負けるつもりはない」
彼女が壊れて泡となって消えてしまうくらいなら、いっそ俺がその泡になりたい。
あなたを手放そうとした俺の決意を、ほかでもないあなたが許さなかった。
それならば、俺は……。
俺ができることは、ひとつしかない。
泡になって消えたいなんてぬるいことは、言っていられなくなってしまった。
『泡になりたい』
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いつもありがとうございます。
本当は以下の内容で書き上げたかったのですが、ちょっとピンクな雰囲気になってしまったので没にしました。
中途半端ではありますが、区切りのいいところまで供養させてください。
興味なければ次の作品へポチッとしちゃってくださいませ。
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夏は嫌な夢ばかりをみてしまうから困る。
ここは俺のとっておき癒しアイテムと、彼女を気のすむまで甘やかすという合わせ技で癒されるしかない。
まだ眠っている彼女を起こすのは忍びないが、そろそろ起きる時間になるからしかたがない、そういうことにしておいた。
写真を撮ったり、ほっぺたをツンツンしてみたり、ふわふわの髪の毛でへたくそな三つ編みを作ってみたりする。
そろそろチュッチュっとキスをしようかといったところで、彼女は鬱陶しそうに瞼を開けた。
「おはようございます♡」
「……はよ」
髪の毛の違和感にすぐに気づいた彼女は、朝から景気のいい特大のため息をつく。
「あのさ、起こすならもっと普通に起こして……」
ひどく掠れた声で文句を言いながら、彼女はのそのそと体を起こした。
そのタイミングで、俺はさっそくバブルバスの入浴剤を見せてみた。
「俺と一緒に泡になりたいと思いませんか?」
「…………は?」
寝起きはよくても頭はまだ少し眠っているらしい。
俺の言葉をしっかりと反芻したあと、ひどく蔑んだ目で睨みつけてきた。
「……朝っぱらからなに言ってんの?」
「とろとろあわあわになれるんですよ?」
「ですよ? って言われても知らねえよ」
入浴剤だけではダメか。
泡風呂とか絶対好きだと思ったのに。
自分のクローゼットからもうひとつ、アイテムを召喚した。
「あ、ほら。今なら水で膨らむボディスポンジ、小鳥さんバージョンも用意できます」
「なんでこんなもんが家にあるんだよ……」
「買ってきたからですよ?」
100円ショップにも圧縮されたボディスポンジが置かれるようになるなんて、いい時代になったものだ。
本当はハムスターのスポンジがあればよかったのだが、残念ながら見つけられなかった。
「家の中をラブホにする気か」
「ラブホなんて行ったことないくせによくご存知ですね?」
「は?」
急に彼女の怒りのボルテージが上がった。
「……なんでそんなこと知ってんだよ」
デリケートな内容に触れられて恥ずかしくて照れてしまったのかもしれないが、少し考えればわかることである。
「なんでって、高校生じゃホテルは入れないでしょう」
高校生の頃に恋を散らせて以降、俺とつき合うまで、彼女は男っ気ない生活を送っていた。
いちいち年齢をちょろまかすリスクを冒してまで入ろうなんて考えにも及ばないだろう。
俺は俺で、彼女をラブホテルに連れていったことはなかった。
それだけのことである。
「……あぁ、うん。なるほどね?」
俺の言い分に彼女は納得したのかしていないのか。
雑にあしらって着替えを始めた。
「ま、そういうことですから。よろしくお願いしますね♡」
むちゅーっと、彼女の唇にキスをして俺は寝室を出た。
「ほあっ!? ちょ、はあっ!? そういうことってなに!?」
完全に眠気が冴えたようで、彼女の絶叫が寝室に響いたのだった。
『泡になりたい』
8/6/2025, 6:39:56 AM