『雨の境目』
駅を出ると、雨が降っていた。
予報にはなかったはずだが、空は言い訳をする気もないように、均一な灰色で覆われている。
屋根のある通路で足を止めていると、向こうから彼女が歩いてくるのが見えた。傘は差していない。少し濡れた髪が頬に張り付いている。以前と変わらない歩き方だった。
「久しぶり」
そう言って、彼女は笑った。
僕は何か言おうとして、うまく言葉が出てこなかった。代わりに、ポケットの中で指先が冷えたまま動かない。
「元気そうだね」
彼女は続ける。
まるで、昨日も会っていたかのような調子で。
あの日のことを、思い出しているのかどうか、わからなかった。
駅のホームで、電車が来る直前。言葉が交わされるより早く、扉が開いてしまったあの時間を。
結局、僕は何も言えなかった。
言わなかったのかもしれない。
「ねえ、傘、貸してくれない?」
彼女は軽く首をかしげて、そう言った。
僕の手元にある折りたたみ傘に視線を落とす。
ああ、と思った。
雨は、少し強くなっていた。
通路の端から水滴が一定の間隔で落ちている。誰もそれを気にしていない。
僕は黙って傘を差し出した。
「ありがとう」
彼女は受け取ると、何のためらいもなく広げた。
そして、そのまま振り返らずに歩き出す。
背中はすぐに人混みに紛れていった。
僕はしばらくその場に立っていた。
濡れた地面に映る街の光が、ぼやけている。
傘を渡した手が、少しだけ軽くなっていることに気づく。
その軽さが、どこか現実味を欠いていた。
やがて電車が来て、人の流れに押されるようにして僕も歩き出した。
改札を抜ける頃には、雨の音は遠くなっていた。
それでも、あの時言えなかった言葉だけが、ずっと近くに残っている。
たぶん、これからも。
3/25/2026, 10:47:14 PM