Werewolf

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【神様へ】

 その男は、泥に塗れて深い森をかき分けながら、国で崇められているありとあらゆる神を罵倒していた。国には十神と呼ばれる存在があり、主神を始めとして、豊穣、武力、学問、幸運、家庭、財産、商業、美の神がいた。それらが与える加護は、十三歳になると左手の甲に浮かび上がる。人差し指の先程度の大きさの紋様として刻まれるそれは、見せてもいいし隠していてもいいような、そんなものだった。一応、建前上「武の神の加護がなくても騎士にはなれる」のだ。ただ紋様登録によって管理する人間には筒抜けで、その有無一つでどんな戦績があろうとも上級騎士になるまでの道のりが果てしなく長くなる。学問もそうだ。同じアカデミーを卒業していても、紋様一つで文官としてどこまでいけるかに差が出てくる。
 男は茂みの中に転がり込むと、自分の左の手の甲を睨んだ。さっき人に石を投げられて赤く晴れたそこに、紋様はない。ブランク。この国においてそれは、加護がない、呪われたものとして扱われていた。家族は驚きこそすれ、左手を隠してても出来る仕事について教えてくれた。荷運び、大工、掃除夫、金貸し、革細工職人……少年だった男は絶望していた。いつか騎士になるのだと思っていた。しかし、紋様登録が必要な仕事は、ブランクの人間を雇うことはない。それどころか、隠していないと害される。
 愛してくれた両親が病で死んだ。慕ってくれた妹は家庭の紋様があったので、両親の遺した遺産を支度金に持たせて、なんとか友人経由で嫁がせた。自分は家を守るために、必死になって働いた。大工が上手くいかなかったが、木樵仕事は向いていたので、毎日木樵のギルドの連中と木を切っていた。
 ある時、国の法律が変わった。全ての職業で紋様登録が義務付けられた。男はどうにかして逃れようとしたが、ブランクであることが露呈しただけだった。そのはずだった。
 仲間に石を投げられた。それを見ていた外の人間にも石を投げられ、街を追われ、まだなお追ってくる人々からどうにか逃げ延びてここにいる。真っ暗で行き先のわからないような森は、不安と恐怖を強くするばかりだった。
 ただ、普通に暮らしたかっただけなのに。木樵の仲間達と働いて、笑って、酒場で酒を酌み交わしていた時間がどれほど幸せで得難いものだったかと考えてしまう。妹が時々手紙をくれることの喜びがどれほどのものだったか。両親が残してくれた物や心を家の中で見つけるたびに、どれほど愛されていることを痛感したか。
 家もギルドの仲間も失い、それらの全てが亡くなった。だから男は、国で崇められているありとあらゆる神を罵倒していた。主神を始めとして、豊穣、武力、学問、幸運、家庭、財産、商業、美の神の全てを罵倒していた。不意に……おや、と指折り数える。
 おかしい。神の数は十ではなかったか? 十神なのに、名前が上がっているのは九人だ。
「それはね」
 と突然耳元で声がした。面白がるような女の声だ。辺りを見回しても誰もいない。
「私が強すぎて邪魔だったからよ」
 左の手の甲がくすぐったい。ぱっと手を払うと「まっ不敬ね〜」とまた笑う声。
「一体、誰だ!?」
 と怒鳴ってみても、そこにいるのは男だけ……の、はずだった。
「よくここまで来てくれたわね、我が加護の子。目隠しを外してあげる」
 目の当たりにざっと風が吹きつけ、ぎゅっと瞑る。と、目の前が明るいような気がした。恐る恐るまぶたを上げると、はっきりと光をまとった女性が一人、立っている。どことなく豊穣の女神に似た面差しをしていた。
「はじめまして、私は地母神、またの名を死の神」
 艶めく唇から紡がれる言葉に、男は眉を顰めた。聞いたことのない神だった。
「国で崇められている豊穣の神がいるでしょう? あれは私の双子の妹。本当は二人で豊穣と、死と再生を司る神だったの。きっと、死と再生が、邪魔になっちゃったのね、妹と引き離されて、私はなかったことになったわ」
 彼女の触れた木の枝が一瞬にして冬を迎えたように枯れ葉を落とすが、すぐに新芽を芽吹かせる。奇跡としか言いようのない事象を見て、男は跪いていた。
「では……十神の十人目はあなたでしたか」
 そういうと、彼女はゆっくりと頷いた。
「そう。でもなかったことにしたとて、私がこの国の神であることは変えられない。ほら、見て、あなたの左手」
 言われるまま、男が左の手の甲を見る。そこには見たことのない紋様が浮かび上がっていた。
「元々あったのよ。でも誰にも見えないように、国全体に目隠しの魔法がかけられているの」
 それじゃあ、それなら、今まで自分が苦しんでいたのは。
「十神は国民を均等に加護しているの。九神達の馬鹿げた決定のおかげで、きっと街の外にもっと多くのブランク、私の加護の子が集まるわ」
 女神の周辺の植物が、激しく枯れ果てたかと思えば、凄まじい速度で成長していく。それを繰り返していくうちに、植物が玉座の形を作っていた。
「人の子、あなた私に協力なさい。妹を国の中央の玉座から攫うの。この黒い森は私の領域。ここまで連れてきてくれるだけでいいわ。そうすれば国は飢饉で勝手に滅びるでしょう」
 代わりに、と言われた途端、左手の紋様が熱を持った。
「あなたが連れてくる人と、やってくるブランク達のために、私はここに集落を作るわ。あなたはその長になるの。悪い話じゃないでしょう?」
 男は頷いていた。男はこの神に己を捧げても、失ったものを取り戻そうと、そう決意していた。

4/15/2026, 2:24:42 AM