Werewolf

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【星が溢れる】

 果たしてそれは、いかなる結果をもたらす実験だったのか。

 とある類人猿の一種を、幼年から飼育する実験施設でのことである。その子供は「シュプール」と呼ばれている。
 母親のドンケルと父親のジャッケは、キーボードによる意思疎通を可能とした成体二頭だ。簡単な絵文字による会話を可能としていた。中でも彼らに認められた驚くべき知能の中で、「正しい」「言葉」「ほしい」を何度も繰り返したことは特記すべきだろう。彼らは新しい言葉を貪欲に欲しがった。例えば好物のリンゴを与えたときに、それが切り分けられているときに「りんご」「ふたつ」「正しい」「言葉」「ほしい」と言ったのだ。そこで、研究員がさまざまなものを二つに等分しながら「半分」という言葉、絵文字を与えてみた。すると、その二頭はすぐに「りんご」「ひとつ」「半分」「私」「私」「ふたつ」「良い」と入力し、二頭で分け合った。
 こうして、当初用意していた五十語分の言葉ではあっという間に足りなくなった。一方で前例のある手話をする霊長類には届かず、というよりも指の可動域の問題だろうか、正しく表現できないようで、「指」「正しい」「ない」「むずかしい」と回答があった。
 ある日、「ドンケル」「小さい」「私」「持つ」とジャッケが入力した。ウロウロと落ち着きのないジャッケを一度隔離して、ドンケルの体調を確認すると、妊娠していた。彼らがどのようにして妊娠を察したのかはわからない。ジャッケに「ドンケルを安全な部屋に隔離する」と伝えると、ジャッケは「顔」「見る」「ない」「こわい」「私」「ドンケル」「見る」と入力した後、うずくまってしまった。
 そこで、もともとドンケルとジャッケが眠っていた部屋をなんとか仕切りをつけて分け、互いの顔が見えるようにした。ドンケルはジャッケに時々何か話しかけ、ジャッケは真剣にドンケルの顔を見ている。キーボードのある放飼場は屋根付きの屋外で、二頭はその日から交代で外に出されるようになった。
 しかし妊娠中期にさしかかった頃、類人猿にも影響のある感染症が世界中に猛威をふるった。仕方なく、研究所でも他の研究している動物を狭い屋内に閉じ込めることになってしまった。
 ドンケルとジャッケは、理解を示した。ジャッケは研究員たちがいつも以上に厳重にマスクや手袋をしている様子を見て、「たくさん」「あなた」「悪い」「体」と述べた後、「ぜんぶ」「悪い」「なる」「時間」「私」「ドンケル」「ここ」「あなた」「まもる」「ありがとう」と打ち込んだ。
 研究員にとって衝撃的な出来事だった。彼らは病気の概念を理解し、予防をする人々を見て、自分たちがそれから守られているのだと、そう言っていた。

 そんな天才的な二頭の子は、流行病の中で生まれ、育った。研究員も何人か重症や死亡で欠員が出た。恐ろしいほどの猛威をふるったが、やがて病に治療法が見つかり、ようやく人々の生活が元のように戻り始めた。そうなるまでに、三年。シュプールは人間で言えば小学生くらいの年頃だった。ドンケルとジャッケに育てられた彼女は、当たり前のように言葉も吸収していった。両親と同等か、それ以上と言えた。
 その彼女が、初めて外に出る日が来た。閉鎖されていた屋外放飼場のシャッターが開いていく。外壁に取り付けていた密閉カバーが取り外されて、開いていく頃には、日が傾いていた。シュプールは夕日を見つめていた。飽きる様子もなく、じっと。両親が食事を始めても、木の枝を移ったり、座り方を変えたり、ずっと見ていた。やがて星が瞬き始め、空が真っ暗になって、ようやくドンケルに背中を叩かれて食事を始める。それを終えると、ぱたぱたと軽い足音をさせて、どこか興奮気味に文字を打ち込み始めた。
「空」「みる」「私」「ひとつ」「時間」「正しい」「言葉」「ほしい」
 察しのいい研究員が、「はじめて」という言葉を与えた。
「空」「初めて」「見る」
 シュプールはそれを打ち込んだ後、ぎゅっと一度拳を握った。
「空」「青」「赤」「黒」「白」「大きい」「ボール」「赤」「ボール」「ない」「時間」
 夕日が沈む様子を、必死に述べてくる。小さな指でボタンを押しながら、シュプールは呼吸を荒げていた。
「空」「黒」
 握っていた方の手を開く、指を波撃たせるように動かしていた。
「小さい」「小さい」「白」「明るい」「ある」「たくさん」「たくさん」「たくさん」
 もどかしそうな様子に、研究員が空を指差した。
「夜空」
 と、そう告げて絵文字を与える。
「星」
 いくつも浮かぶそれを転々と指差すようにして絵文字を与える。
「溢れる」
 と、手を、それこそシュプールがやるように波うたせながら、絵文字を与える。
 それは実験だった。溢れる、という言葉をどれほど正しく理解できるのか、という。
「夜空」「星」「溢れる」
 シュプールは、繰り返し、繰り返しその三語を打ち込んだ。よほどそれが気に入ったのだ、とノートに記載しているうちに、不意に、研究員は手を止めた。
「夜空」「星」「溢れる」
 それは、本来絵文字が押されたときに、電子音として読み上げられているだけの声のはずだった。違う、それは辿々しく、どこか欠けているような、擦れたような音を持っていた。
「よぞら」
「ほし」
「あふれる」
 それは、シュプールの声だった。
「ほし」「が」「あふれる」
 研究所は騒然とした。ただ単語を理解しただけではなく、類人猿が接続を理解した。それはさまざまな意見や憶測を呼び、会議は大変な混沌状態となった。研究者である冷静な人々が取り乱すような事態がそこにある。
 果たしてそれは、いかなる結果をもたらす実験だったのか。シュプールには知る由もないし、未来のことはまだ、何もわからなかった。

3/16/2026, 6:05:05 AM