早朝5時のアラームで雅代の1日が始まる
朝食には炊き立ての白飯と味噌汁が無ければ不機嫌な夫の為に、結婚以来それだけは欠かさずに守ってきた
職場で出会った夫との結婚は約20年前
生真面目な夫は面白味には欠けるが、酒もタバコももちろんギャンブルもやらず、ほぼ会社と自宅を往復するだけの夫としては優良と言って良いだろう
子供は授からなかったが、お互い特に不満もなく穏やかに過ごしてきている
夫の強い希望で郊外に一軒家を購入したため、片道2時間もかけて都内へ通勤しているが、夫本人はそれほど苦でもないようだ
夫を送り出し、手早く家事を済ませ、身支度を整える
軽く化粧を施し、無造作に垂らしていた髪は低い位置でシニヨンにまとめ、家ではほぼパンツしか掃かないが、外出には必ずスカートを選ぶことにしている
いつもの電車に乗るために駅へと足早に急ぐ途中、雅代は「雅代のスイッチ」を切る
電車で1時間ほどで、幸夫の待つマンションの最寄駅に着く
その改札を通るタイミングで「環」としてのスイッチが入る
幸夫との出会いは、15年ほど前の幸夫の本の出版記念のサイン会だった
当時もうすでに、人気に翳りが出始めていた彼のサイン会に訪れるファンはまばらで、環もそれほどファンという訳ではなかったが、たまたま立ち寄ったのだ
縁とは、そういうものだ
そうなることが当然のことのように、ほどなく幸夫とは深い仲になり、「内縁の妻」として毎日通う生活を続けて来た
幸夫には環が、「雅代」として夫があることは伝えていない
1度も泊まることをしないのは、病気がちな母と実家で暮らしているから、と伝えている
幸夫がそれを信じているのかは分からないが、「泊まって欲しい」と口にすることが、二人のこの穏やかな関係が傾くきっかけになることが怖いのだろう
幸夫は環より20も歳が上なので、もう性的な交わりを求めてくることはほとんど無い
だから、一緒に音楽を聴いたりテレビを観たり食事を共にしてゆっくりと時間を過ごす
たまには健康の為に散歩に誘うが、人の目があるから、と応じない
もはや彼のことを覚えている人も少ないだろうし、今の容姿からでは彼のことに気付くこともないだろうに…
多目に作った夕食を、母と食べるからとタッパーに詰め、帰り支度を済ませる
「また、明日ね」と額に唇を軽く寄せ、握ってくる幸夫の手を優しくほどき、マンションを後にする
そして、帰りの電車の中で「環」から「雅代」に切り替える
こんな生活をもう長いこと続けてきた
どちらが日常で、どちらが非日常か…
「雅代」でいる時間と「環」でいる時間はほぼ等しい
だから、どちらも日常であり、非日常なのだ
「雅代」でいる時は、夫に忠実に尽くし愛着も感じているし
「環」でいる時は、幸夫を愛しく思い彼の愛も受け入れている
だから、不思議と罪悪感はまったく湧かない
どちらも同じ様に大切で、どちらも真剣なのだ
こんな2つの「日常」を往き来して暮らしている
『日常』
6/23/2024, 5:55:54 AM