フィクションです。ネットリテラシー大事。
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【君の名前を呼んだ日】
彼は私にとってずっと『ヒノカ』さんだった。出会ってから二年、いや、三年か。
ネット上だけの付き合いが続き、同じゲームをしたり、本や映画をおすすめしてもらったり、料理のレシピを交換したり。
良き相談相手でもあった彼と、初めて会う。私はものすごく緊張していた。
「もしかして『せり』ちゃん?」
待ち合わせの時間より早く声を掛けられて、心臓が口から出るかと思った。
予想していたよりも小柄だ。大人しそうな眼鏡の男性。黒髪で、真面目そうで、穏やかに微笑んでいる。
「『ヒノカ』さん、ですか?」
「はい。はじめまして……っていうのも、なんだか変な感じだね。日村ほのかです。よろしく」
「ほのかさんっていうんですか。え、本名?」
「そうですよ。だから『ヒノカ』なんです」
「そうだったんだ……」
男性には珍しい名前だなぁと思って、ハッとした。彼が名乗ったのなら、私も名乗るべきかと。
「渡辺梨世です」
「ああ。りせちゃんだから『せり』なんだ?」
「うん、そうなの」
頷いてから、しまった、と思った。年上の初対面の男の人に、随分砕けた話し方をしてしまっている。
「あ、えっと、ごめんなさい」
「ん? なんで?」
「口調……ヒノカさんだと思うと、どうしても馴れ馴れしくなってしまって」
ヒノカさんがふふっと笑う。目尻に少しシワができて、なんだか優しい笑顔だなぁと思った。
「別にいいよ。楽に話そう。俺もせりちゃんとはタメ口の方が落ち着くし」
「じゃあ、無理に敬語じゃなくてもいいかな?」
「もちろん」
私とヒノカさんは映画を見に行き、カフェで感想合戦をして、更に話し足りなくて居酒屋に行った。
これはデートなのかもしれない。私がクズ男と別れたばかりで、傷心なので愚痴を聞いて慰めて欲しい……なんて要望がなければ。
「もう最悪! 本当に!」
「そうだね、せりちゃん何も悪くないのにね」
「いつか刺されちゃえばいいのに!」
「せりちゃんはやっちゃだめだよ。そんな奴のために前科ができるなんてもったいないからね」
「うん……」
「せりちゃん、もしかしてお酒強い?」
「そうなの。うちの家系、女の人の方がお酒強くて」
「へぇ……でも、あんまり飲み過ぎちゃだめだよ」
そういうヒノカさんは少し赤い顔をしていた。
別れ際、ヒノカさんが振り向いた。表情を引き締めてじっと私を見つめてくる。
「渡辺さん」
「……え?」
「また、俺と会ってくれますか」
「えっと、はい。ヒノカさんと話すの楽しいし」
良かったと言って笑ったヒノカさん……いや、ほのかさんは、半年後には私の恋人になっていた。
「あの……ほのかさんって、いつから私のこと好きだったの?」
つい、気になってそんなことを尋ねた。
「そうだな。君の名前を呼んだ日には」
「それって、初めて会った時?」
私が無様に愚痴をぶつけたあの日か……
「うん、でも。もしかしたら、もっと前からだったかもね」
5/26/2025, 12:55:35 PM