結城斗永

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※9/29投稿『モノクロ』の続きにしてみました。
【前回のあらすじ】
 墨で描かれた水墨画の世界。病に伏す母の薬を買うために隣町を目指していた少年は、川のほとりで鵺(ぬえ)と遭遇する。鵺から母の病を治すには、世界の果てにある『紅い落款の花』を探す必要があると告げられ、少年は鵺とともに世界の果てへの旅に出る。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
 少年と鵺(ぬえ)はしんと静まり返る森の中を歩いていた。
 木々の線は薄れ、葉は墨を抜かれたように透けている。辺りには霧が立ち込め、淡墨の混じる空白が視界に蠢いていた。
『この森にいた墨鴉(すみがらす)も、すでに他所へ行ってしまったようだ』
 鵺の声が頭の中に薄く広がる。
「墨鴉……?」
『余白を啄(ついば)み、大地に墨を差し入れる黒き鳥だ――』
 鵺の言葉に、かつて母から聞かされた古い民話を思い出す。
 
 “この世は自然の摂理で巡っている。
 森の中にできる霧は、墨を舐める白鹿の残渣(ざんさ)。
 霧は陽の光に照らされ、やがて散り余白となる。
 乾いた余白を墨鴉が啄み、再び大地に墨が入る。”

 少年が空を見上げると、そこに昇っていた太陽は霧に紛れるようにして光を失っていた。

 先の見えない霧の中を鵺の導きで歩いていく。
 徐々に霧が薄れ、木々の姿が輪郭を持ち始めた頃、視界の先にぼんやりと寂れた村が姿を現した。
 藁葺きの屋根はほつれ、壁の墨は剥がれている。かつては人の姿もあったのだろうが、村を覆っているのは淡墨の暗がりがもたらす寂しさだけだった。

 ふと、村の奥で草を踏むような小さな音がした。
 視線の先にいた獣は、余白と見違うような白い色をしていた。淡墨の際が白い輪郭となり、鹿の形を浮かび上がらせている。
 白鹿は首をくねらせながら家の壁や道の墨に舌を這わせる。舐め取られた墨が薄く滲み、霧となって広がっていく。

「こんな村にも白鹿が出てくるなんて……」
 少年が漏らすと、鵺は真っ直ぐ白鹿を見据えて告げる。
『元来、白鹿は森の墨を舐めて暮らすもの。光の届かぬ森には余白もできぬ。墨鴉のいない森で白鹿もまた飢えから森を去る他なかったのだ』

 少年は白鹿の姿を見つめながら、胸の奥が痛んだ。
 鵺は淋しげな視線を虚空に逃がしながら続ける。
『この世界は神に見放された。新鋭に取り憑かれ、余白の意味を忘れたのだ。そうして光の消えた世界からは余白が消え、循環は途絶えた』
 鵺の言葉が村の淡墨に寂しく溶けていく。

 その夜、少年はひとり村を離れ、再び霧の森へと向かった。霧はさらに濃くなり、足元すら見えない。
 
 ――霧を余白に変えるためには、光が必要なんだ。どうすれば神は再びこの世界に目を向けてくれるだろうか。
 
 少年は両手を胸の前で合わせ、目を閉じた。瞼の裏に浮かぶ母の顔、村の景色、消えゆく森。
 
 ――神よ。もう一度この森に余白を与えてください。この森が再び自然の摂理を取り戻せるように。
 
 少年の祈りは光となり波を打った。波は蠢く霧をかき混ぜ、木々を揺らした。
 そうして――森を風が吹きぬけた。
 森に溜まっていた霧がぶつかり合って解けていく。墨の粒が空に舞い上がり、乾いた白地へと変わっていく。

 森の奥から、羽音が聞こえた。低く、懐かしい音。
 一羽の墨鴉が木々の間を抜け、余白へと舞い降りる。
 その嘴(くちばし)が余白を啄むたび、世界に黒い線が走る。
 線は枝となり、葉となり、風となる。

 少年はその光景を静かに見つめていた。
 再び息をし始めた森の中で、背後から鵺の声がする。
『貴様の祈りがこの森を蘇らせたのだ。やはりこの世界を変えられるのは“人の子”なのだな』
 少年は鵺の言葉に答えず、ただ霧の去った森を見渡した。
 木々が風に揺れ、葉の擦れる音がする。すき間から漏れ入る光が淡墨の中に筋を描く。墨鴉が一羽、また一羽と増えていく。気づけば余白は再び線の重なりを纏い、森の一部となっていた。
 奥から白鹿がのそりと顔をのぞかせ、驚いた墨鴉が飛び立っていく。こうして世界は周り、命をつないでいく。

 少年はその光景を目に焼き付けながら、再び森を後にする。いつしか少年は鵺の前を歩いていた。鵺はその後ろ姿を頼もしそうに見つめていた。

#光と霧の狭間で

10/18/2025, 2:39:04 PM