日向夏

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「花が散るころ、また来よう」
桜の上は、稲荷の君から一輪の花を受け取った。
彼はそう言い残して、桜の上のもとを去っていく。

まだか、まだかと待ち続けて月日が経った。
彼からもらった花は不思議なことに、枯れることなく、散りもしない。

ある日ふと鏡を見たとき、桜の上はとても驚いた。
白い肌にはシワができて、黒髪にはところどころ白髪が見られる。
花も恥じらうその美しさはどこへ行ってしまったのか。

「こんな姿では稲荷の君に合うことなどできない」
桜の上は悲しみのあまり、しばし局へこもってしまった。
愛しい殿御に会えない寂しさと、美しさを失った辛さ。
しかし女房に情けない姿は見せまいと、昼間は気丈にふるまった。
毎晩、女子のすすり泣く声は絶えなかったそうだが。


満月の夜、稲荷の君がおお見えになった。
満月の夜、桜の上がお隠れになった。


稲荷の君は桜の上の亡き骸に涙を流した。
彼は忘れていたのだ。人間とは時の流れが違うことを。
桜の上がお隠れになった今、やっと花は散っていく。

悲しみが尽きない彼は、まことの姿へ戻り旅に出た。
時折愛しき人を思い出して地に涙を落とす。
土からは芽がはえ、やがて桜の並木となった。
その桜は今でも多くの人々を夢うつつに惑わし、時の流れをも忘れさせてしまうとさ。


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「桜は散ることを知りながら、咲くことを恐れない」
満月の夜、どこかの誰かさんがそんな言葉を聞いたらしい。

12/26/2024, 1:30:46 PM