例えばもし、この世に『天国』や『地獄』があったとして、己が属せるのならば。
それは疑いようもなく、『地獄』なのだろう。
「死者は死後、深き地の底にある死者の国に導かれる」
寝物語を語るかの如く柔らかな声音。
耳に心地好いと思ったのは、今も昔もこの声だけだった。
「死者の国、冥界、冥府。『地獄』とは違うのか?」
「それは神話だろう。『地獄』とは宗教の産物。悪業を為した者が死後、その罪に見合った責め苦を受ける場所、だそうだ」
「宗教、ね。信じているのか?」
「信じているように見えるか?」
「信じるどころか、神に唾を吐いていそうだな」
星のように煌めく瞳が、じっとりと見下ろしてくる。
随分と酷な評価だが間違いでもない。
神に唾を吐くが如き所業。天の星を落とすが如き所業。
作り物めいた、それこそ神に愛されたとしか思えぬ、美しい美しいその身体に手を伸ばし、掴んだ顎を引き寄せて噛み付くように強引な口付けを。
その清らかさを。
その穢れなさを。
貪るように、あるいは汚すかのように。
あまりにも冒涜的で背徳的ではないか?
「口。開けろ」
「噛んでも宜しいのか」
「遠回しな血の所望か」
「調子に乗るのもいい加減にしろよ」
抵抗という抵抗はろくにしないのだが、どうやら機嫌を損ねたらしい。
殴られてはたまらないと顎を離してやる。
直ぐに遠ざかろうとすることに苛立ちを覚えるようになったのは、一体何時からだったか? 少なくとも最初から、ではないはずだが。
「心配せずともお前は間違いなく『地獄』行きだ」
「こちらとて『天国』など願い下げだ」
「行く時はちゃんと私も連れて行けよ」
「………………なんだ。プロポーズか?」
「死期を早めてやろうか」
余計な一言だったのか軽く額を叩かれる。
今のはそこまで悪くないと思うのだが。
「そんなロマンチックなものか。共犯者として、理解者として、最期まで付き合ってやるだけの話だ。というか今更私を置いて行くな。散々付き合わせておいて、好き勝手やって逃げるなど許さんからな。最期まで見届けさせろ。…………………………それに」
瞬く星の瞳。
手に入らないからこそ美しく、穢れないからこそ美しく、手を伸ばして、手を伸ばして、手を伸ばして、手を伸ばして。
地の底から星に手を伸ばすのも。
案外悪くないかと思ったのだが。
(この《星》は、『地獄』であっても美しいのだろうな)
「共に堕ちるのなら、地獄だって悪くはなかろうよ」
【題:天国と地獄】
5/27/2024, 5:08:43 PM