だれもいない教室であなたの席を見つめるのが好きだった。
その場所からいろいろな景色を見て、どんなことを思っているのだろうと思うと、心臓の位置が明確になるようだった。誰を想っているのだろうと思うと、それが大きな掌で握りつぶされるような感覚になった。
私もそこに座ってみたいと思って目の前まで歩み寄ったことがあるけれど、誰かが突然入ってきたら不審な女になってしまうので辞めた。
あなたはいつもどこか遠くを見ていて、誰とでも分け隔てなく仲が良いのに誰とも仲が良くないみたいだった。妄想癖のある私は、あなただけが人生を何度か経験しているのかもしれないと何度か思ったことがある。それくらい、大人びていたのだ。
あなたとは三年間同じクラスだった。今思えばその出来事はこんな短い言葉で表現できてしまうけれど、一年生の最終登校日ののもう離れてしまう悲しさ、二年生のクラス発表の時の緊張、二年生の最終登校日の期待、そして三年生のクラス発表の喜びと言ったら、私の人生のハイライトとなるかもしれないくらい分厚い記憶である。私はこれまで真面目に真っ当に生きてきたつもりだが、全てはこの日に報われるためだったのだと確信を得たくらいには嬉しかった。今となっては「好きな人と三年間同じクラスであった」という思い出に過ぎないけれど。
そうだというのに、私とあなたが会話をしたことはほとんどなかった。相手が特段こちらを避けていたことはないと思うのだけど、今思えば私は彼の視界になるべく入らないようにしていたように思う。あなたの人生にとって私がモブであれば、この恋が叶わなくなって仕方がないと思えたからだ。だからもし彼を主人公にした物語があるとしたら、私の名前はきっとエンドロールに載らないのだろう。
一度だけ彼から話しかけられた時があった。理由は覚えていないけれど、何らかの事情で朝早くに投稿した日に私は一人で本を読んでいた。するとあなたが扉を開けて教室に入ってきた。私はと言えば、この空間に私と彼が二人きりだと言う初めての状況に今が寿命かもしれないと思うくらいに心臓がはやり、ひたすらに何でもない顔をしようと必死だった。更にあなたは自分の席についたかと思うと、こちらに歩み寄ってきたのだ。そして私の席の前で立ち止まり、こう言った。「それ、なんて本?」幸い人に教えても差し支えのない一般的な書籍を読んでいたので、私はゆっくりとした動作で読んでいたページに栞を挟み、表紙を開いてみせた。本当はなにか言うべきだったと思うのだけど、当時の私にはそれが限界だった。彼は表紙をまじまじと見た後、「素敵だね」と一言呟いて自分の席へと帰った。呆然としていると次々と生徒が登校してきて、先ほどまでの空間とはまるで別の世界みたいに賑やかな、いつもの教室となった。
教室の隅で本を読む地味な女に、素敵だねと一言声をかける男なんて、今思えば少し格好つけていると思う。けれどもあの三年間の私にとっては彼が全てだと言っても過言ではなかった。今だってこうして鮮明に思い出せるくらいには。
彼は卒業して東京に出たらしい。風の噂で知った時、あなたらしいなと思った。私は同窓会には行かなかったので、今あなたがどうしているかは分からないけれど、きっと当時の同級生とは連絡も取っていないのだろうな、と勝手に思う。私はあなたのことを何一つ知らなかったけど、だからこそあなたを本当に"素敵な人だ"と思っていたのだ。
9/6/2025, 3:26:07 PM