葉月

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「きらめき」

 世の中の人はきらめきを求めている。人の関心を自分に集めたかったり、自己主張に「いいね」という肯定を求めている。確かに、それで満足は得られる、きらめいている自己確認が可能となる。
 私が仏教から学んだことは、それは一瞬のことで永遠ではない。しかしその一瞬の高揚感は、まるで麻薬のようだ。自己肯定や高揚感が忘れられなくなる。そして必死になって、もう一度もう一度と頑張る事になる。
 仏教的には、まさにこれが苦しみなのだろう。私にも苦しみはある。老いてきて体力も記憶力も落ちてきて歳相応に老けている。それは当然のことなので、鏡の前で、苦しみを手放す。老けている自分で良い。かつての自分に戻りたいとは思わない。
 そして誰かに注目されたい願望もない。自分が自分らしく生きている。それが一番大切な事だからだ。そう悟れれば、本物のきらめきがやって来る。または天からの光に照らされると言いかえても良い。誰からの肯定も必要ない。つまり救いは自分の内にあり、言いかえると神とともに神なしで生きる、そういう境地へと向かっていけるのだ。
 よく考えて欲しい。かえって苦しむ道を歩んでいるのであれば、目覚めて欲しい。苦しみを手放すために。    



注意⭐︎ご存知の方も多いと思いますが
   「神の前で神なしで生きる」ナチスに抵抗し牧師であり神学者であったボンフェッファーの言葉から影響を受けた記述があります。どの宗教も究極的に悟りの道を歩むことになると考えております。しかし私独自の宗教的考察を誰かに押しつけるものでは、ありません。
 いま、伝える事の難しさを感じています。つまり、どの宗教においても、信じる仲間がいても、その宗教に神がおられるのなら、神と向き合うのは己れ独りという事になるかと思います。個人的な思いです。

9/4/2023, 12:06:50 PM