浅井

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お題「ここではないどこか」

「ここではないどこかにいきたい」

 君が、息も絶え絶えに言う。蝉の声と、最大出力で酷使されている扇風機があげる風音とモーター音に掻き消されそうにか細い声で。
 いや、か細くはない。結構強い声音で一音一音はっきり言った。それでも掻き消されそうなほど、色んな音が五月蝿い。そのくせ、気休めに縁側に下げた風鈴はちりとも鳴らない。酷暑だ。
 暑いし五月蝿いし、君の気持ちは良くわかる。静かで涼しいところに行きたいのは僕も同じだ。

 しかしそう言い放った彼女本人は、床の上に溶けるように平らに広がっている。端的に言うと大の字。どこかに行きたい人のとる姿勢ではない。
 彼女は慰め程度には冷たいフローリングで身体を冷やし、しばらく経って体温が移ったらごろりと寝返りを打つように移動する。どんどん移動していく。それは「ここではないどこかにいきたい」という発言の上で起こす行動としては少し消極的すぎやしないか。
 観察するだけでは手持無沙汰なので、僕は彼女の移動に合わせて扇風機の首を都度動かしていくことにした。でも、それだけだとちょっと暇潰しには物足りない。退屈を紛らわすように、ぼんやりと考えるがままに口を開く。

「ここではないどこかって」
「なに」

 応える君の声は、気だるげだ。

「永遠に行けない場所じゃないかって思うんだ」
「どうしたの」

 少しだけ、困惑が混じる。

「『ここ』の定義と『どこか』の定義次第だとは思うんだけど」
「なにがはじまるの」

 彼女はこわごわと上半身を起こして、僕の方に何だか変なものを見るような目を向けてくる。

「自分がいる場所を『ここ』、自分がいない場所を『どこか』と定義するならば」
「やだなにこわい」

 彼女の声に恐怖も混ざり始めた。何故。

「僕が『どこか』に移動してしまえば、その『どこか』は僕が行った時点で『ここ』になってしまわないかなって」
「熱暴走してる」

 呆然と呟く彼女の声に得心が行く。僕はどちらかというといつもぼんやりしている方だけど、このぼんやりはたぶん熱中症的な何かな気がする。

「『どこか』を追い続けて移動し続けたって、僕がいるのはずっと『ここ』で、『どこか』には永遠に辿りつけないんじゃないかって」
「私にはそんなに難しいことは考えられない!」

 そう叫ぶように言った彼女はその勢いのままばっと起き上がると、ものすごい早さで腕を伸ばし、独占していた扇風機をこちらに向けてくれる。生ぬるい風が結構な風圧で吹き付けて来るのが、逆にちょっと不快まである。

「君、良くこれで我慢出来てたね」

 凄いねと、そう素直に感心を口に出した。しかし、誉められればすぐにしたり顔をして見せる彼女には珍しく、これには応えない。
 僕を無視して真顔でエアコンのリモコンを手に取り、電源を入れた。これも珍しい。空調による温度変化に弱く体調を崩しやすいから冷房が嫌いと、いつもギリギリまでエアコンの恩恵を拒否し続ける君が、自ら電源を入れている。
 そして、換気のために開け放っていた窓や扉を物凄い勢いで全て閉めて回っていた。蝉の大合唱が、遠くなる。
 普段あんなに、面倒くさいことは全部僕に投げ出す君が、自主的に。

 怒涛の珍しい行動の連続に、呆気に取られて目を真ん丸にしていると、僕の視線を感じたのか、彼女はくるりとこちらを振り返る。そして、

「理想の『どこか』なんかを探す前に、『ここ』を理想の場所にしよう」

 と、何だか据わった声で言う。エアコン入れただけで大袈裟なとは思ったけど、なるほど良い考え方だと思う。

 みるみるうちに下がっていく室温と、それに伴って冷たくなってくる風を心地よく感じながら、僕は「そうだね」と彼女に返事をした。

6/27/2024, 2:51:27 PM