G14(3日に一度更新)

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140.『0からの』『太陽のような』『Love you』

「お父さーん、見て見てー」
「危ないから前を見ろ!」
「はーい」

 息子の風太が、自転車に乗りながら手を振ってくる。
 その度に注意を促すのだが、太陽のような笑顔で笑うだけだ。
 子供らしいと言えばそうなのだが、こちらは苦笑いするしかない。

 風太は今日初めて自転車に乗る。
 最初ということで開けた場所を選んだのだが、それでも冷や汗が止まらない。
 近くに危ない物は無いのだが、それでも心配してしまうのが親心というものなのだ。

 でも、その心配は杞憂だった。
 息子の乗りこなしは、熟練した大人のように安定している。
 その堂々とした姿は大人でさえ舌を巻き、鮮やかなコーナーリングは見る者の目を奪う。

 間違いない、風太は天才だ。
 将来はプロの競輪選手か、はたまたトライアスロンの選手か……
 夢が広がるな。

 子煩悩だと人は笑うだろう。
 しかし俺は本気だ。
 風太はきっと大物になる。
 野球の大谷選手のように、連日テレビを騒がせるはずだ。

 そうなると、世間は父親である俺を放っておかないだろう。
 『天才選手を育てた父』として、マスコミから取材を受けるはずだ。

 もしそうなったら……
 そうだな、俺はこう答えるつもりだ。
 『何も教えてません。
  風太は最初から自転車に乗れたんです』と……

 人々は、俺のことを『謙虚な人』と称賛するだろう。
 でもそれは誤解だ。
 だって本当に、何も教えていないのだから……

 風太は今日、初めて自転車に跨った。
 そして補助輪無しで、普通に乗りこなした。

 普通なら驚くべき場面だ。
 しかし俺は動揺しない。
 こんなこと、我が家庭では日常茶飯事だからだ……

 風太は天才だ。
 何かを始める時、既にそれをマスターしている。
 風太にとって、チャレンジは『0からのスタート』ではない。
 ただの動作確認なのだ。

 風太は、赤ちゃんの頃から変わっていた。
 この世に生を受けた瞬間、風太は立ち上がって七歩歩き、『天上天下唯我独尊』と言ってのけた。
 その場に居合わせた全員が顔を見合わせたのは言うまでもない。

 それ以外は普通の赤ん坊だったので、『集団幻覚』としてすぐに忘れ去られた。
 人間、ありえないことが起こると、現実逃避するのだと身をもって知った。

 そして退院して我が家に帰ってから、俺たち夫婦は、さらなる風太の天才ぶりを目のあたりにすることになった。
 1歳で九九を覚え、2歳で原子配列を暗唱し、3歳でピカソばりの絵を描いた。
 4歳の誕生日には、東大の過去問集をねだられた。

 そして5歳の今、自転車を完璧に乗りこなしている……
 実際の光景を目の当たりにしても、『まあ、そうだろうな』としか思えない。
 『天才』、そんな言葉で片づけられない程、風太は才能の塊だった。

 ここまで来ると、どうしても考えてしまうことがある。
 『この子を、ここにいさせていいのか?』という問いだ。

 自慢じゃないが、我が家は普通の家庭だ。
 彼の溢れる才能を伸ばすために、もっといい教育を受けさせた方が良い。
 分かっているのだが、いかんせん金がない。
 無理をすれば大学くらいには行かせてやれるだろうが、小さい頃から私立の小学校に行かせるのは夢のまた夢。

 『もっとお金があれば』。
 それを考えなかった日はない。

 代わりに何かを教えることが出来ればいいのだが、現時点で俺や妻よりも、風太の方がずっと賢い。

「然るべき場所に預けた方が良いのかなあ……」
 思わず、そう口にした時だった。


「お父さん」
 気が付くと、目の前に風太が立っていた。
 自転車から降り、俺をじっと見ている。
 まるで心が見透かされているような気分になり、慌てて笑顔を作る。

「どうした?
 自転車には飽きたか?」
 俺の質問に答えずに、風太は叫んだ

「ら、びゅ」
「え?」
「ら、びゅ」

 突然意味不明の言葉を繰り返す。
 何度も何度も言うが、全く意味が分からない。
 首を傾げていると、伝わっていないことに気づいたのか、風太は後ろの看板を指差した。
 その看板には、『大切な人に『I Love you』を伝えましょう』という標語が書かれている。

「ああ、これを言っているのか……
 違うよ、風太。
 これは『らびゅ』じゃない。
 『Love you』、愛してるって意味さ」
「らびゅ、らびゅ」
 しかしうまく言えないのか、ずっと舌足らずな発音が続く。

 思い返せば、風太は言葉を話すのが苦手だった。
 ほとんどの分野で大学レベルの知識があるのに、語学だけは年相応より少し上くらいで止まっている。
 それでも十分凄いのだが、完璧と思われた風太にも苦手な分野があるのだ。
 そのことが、俺に奇妙な安心感をもたらした。

「焦らなくてもいいよ。
 家に帰ったらゆっくり教えてあげるからね」
「らびゅ、らびゅ」

 俺たち親が、まだ教えてやれることがある。
 少しだけ誇らしい気持ちで、風太の手をひいて帰路につくのだった。

「らびゅ、らびゅ、らびゅ…… Love you」

 ……TOEICの勉強でもするかな。

3/3/2026, 10:04:33 AM