葉作(はさく)

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お題【ルール】

『三ミリ』

 私は、自分の左足が、右足よりもわずかに三ミリほど長く、そのせいで私の精神は永遠に左へ、つまりは不道徳の側へと傾斜しているのだと信じて疑わなかった。

 私の生活は、目に見えない幾千の針によって縫い止められている。
 道を歩くときは、必ず舗装の継ぎ目だけを踏むこと。茶を飲むときは、三度すすり、四度目にすべてを飲み干すこと。誰かに「おはよう。」と言われたら、相手のネクタイの結び目の歪みを数え終わるまで返事をしてはならないこと。

 これら一連の滑稽な儀式、すなわち「ルール」を遵守することだけが、私という、今にも霧散してしまいそうな薄っぺらな存在を、辛うじてこの地上に繋ぎ止めている唯一の錨であった。

 ある日、私は馴染みの古本屋で、一人の女と出会った。
 名は志津といったか。彼女は、私の鉄壁のルールを、いとも容易く、それこそ茹で卵の殻を剥くような無造作さで粉砕した。

「あなた、そんなに肩を尖らせて歩いて、疲れなあい?」

 彼女は笑いながら、私の左ポケットに、あろうことか食べかけの「ドロップ」をねじ込んだのである。
 指先に触れる、ベタベタと湿った砂糖の感触。それは、私の潔癖な世界の終焉を告げる、悍ましくも甘美な合図だった。
 私は動揺した。継ぎ目を踏み外した。茶を二度ですすり、ネクタイも見ずに「あ、ああ。」と情けない声を漏らした。

 その夜、私は自室で、彼女のくれたドロップをじっと見つめた。
 ルールを破ることは、死に直結すると思っていた。しかし、どうだ。窓の外の月は依然として冷ややかに、私の無様な狼狽を照らしているだけではないか。
 私は、思い切ってそのドロップを口に含んだ。
 ハッカの、鼻に抜ける冷たい暴力。舌の上で転がる、不規則な形の石塊。
 私は泣いた。ルールを失った私は、もはやただの、三ミリ左足が長いだけの、醜い凡夫に過ぎないのだ。

 翌朝。私は晴れやかな気持ちで、あえて舗装の継ぎ目を無視し、デタラメな足取りで志津の家を訪ねた。新しい、ルールなき生の始まり。私は、彼女という破壊神に、自分をすべて捧げる覚悟だった。

 しかし、志津の家には、知らない男がいた。
「ああ、あいつ? 昨夜、別の男とどっか行っちゃったよ。あいつ、『一箇所に三日以上居ない』っていうのが、自分自身の鉄の掟なんだってさ。」

 私は、路上で立ち尽くした。
 私の足元には、昨日あんなに避けていた舗装の継ぎ目が、冷酷な定規のようにどこまでも真っ直ぐ伸びている。

 私は、自分の自由を証明するために、わざと足を引きずりながら、また次の、もっと複雑で残酷なルールを作り始めた。

三ミリ。ひどく、歩きやすい。

4/24/2026, 11:09:21 AM