白糸馨月

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お題『羅針盤』

 長く付き合っていた彼氏と別れた。そろそろプロポーズされるかなと思っていた矢先のことだった。
 彼氏のスマホにマッチングアプリを見つけてしまい、問い詰めたところ口論になり、最後には「お前とはそろそろ別れたいと思ってたんだ。ちょうどよかった」と言われた。
 私はショックで彼の顔を見たくなくなり、その場から走り去ってしまった。
 あてもなく繁華街を歩いていく。
 すると、見知らぬ通りに入ってしまったようだ。すこし怖くなって引き返そうとすると、ふと、一軒の店が目に留まる。
 普段だったら、怪しいと思って絶対に入らない場所だ。だけど、今の私はどうしてか惹かれた。
 店の中に入る。客は誰もいない。
 店内は、暗い通りに面している店と思えず白くて明るくてあたたかな雰囲気だった。
 そこで私は一つの羅針盤に魅入られた。
 それはくすんだ金色のアンティークな時計みたいな外見だが、文字盤の代わりにN、S、W、Eと刻まれていて、槍のような形をした焦げ茶の針がちょうどNとEの間をさしている。
「魅入られたのかね」
 突如としてしわがれた声が後ろからして、私は思わず飛び上がりそうになる。背後に老人がいた。老人は私にやさしい笑みを向けていた。
「持っていきなさい。それは今の君に必要なものだ」
 たしかに私は今、目の前にある羅針盤にひかれている。でも、どう考えても安くないだろう。
「あの、ここはクレジットは……」
「お代は必要ないよ」
 思わず「えっ」と言葉がでる。そんなことってあるんだろうか。
「いや、でもお金……」
「お前さんにはその羅針盤が必要なんだ。この店は必要としている者の前だけに姿を現し、その人間にとって必要なものだけを与える。そういうところだ」
「でも……」
「持っていきなさい、その羅針盤はお前さんの進むべき方向を指し示してくれるだろう」
 そう言って老人はきびすを返す。
 正直、困惑している。だが、私は今、どうしてもこの羅針盤が欲しくて仕方がなかった。しかもお金を支払わなくていいと言う。
 私はありがとうございました、と頭を下げ、羅針盤を手にこのお店を出た。
 そうすると、たちまちのうちにそのお店は消え、もとの暗い通りに戻った。羅針盤の盤面が淡くあたたかみのある薄橙の光を放っていて、今、東をさしている。
 私はなんとなくそれが示す方向に向かって歩みを進めることにした。

 この時、私はまだ運命の出会いがそこに転がっていることを知らなかった。

1/22/2025, 4:02:21 AM