白糸馨月

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お題『終点』

 はやくこんな状況から抜け出したい。でも、無理なんだ。
 男は電車の端の席で手すりに寄りかかりながら口を開けている。寝ているのではなく、日頃の激務と上司に無理矢理連れて行かれる酒の席のせいだ。
 転職しようにもそんな暇などなく、職場の人間からいいように使われ、弱い酒を無理矢理飲まされても断れない、男は途方に暮れていた。
 アルコールのせいでぐるぐる回っている脳内に
『次は終点、●●駅ー、●●駅ー』
 というアナウンスが聞こえてくる。だが、男にはもう体を動かす体力なんて残されてなかった。それに今乗っている電車は終電だから、この電車は車庫へと向かう。
 終点なら、駅員が巡回に来て、降りない客がいたら降りることを促すものだ。
 だが、男のもとにはそれがなく、扉が閉まっていく。
 それから、また電車が動き出す。

 男の脳内にこんな声が響き渡った。
『答えよ。ここから先へ行けば元の世界には戻れない。それでもいいか?』
 と、男は酔った頭で首を縦に振った。
 その瞬間、周囲の風景が歪み、暗くあたりが光かがやいているだけの空間になり、電車はそこを走り出した。

 夜空のなかを走る電車のなかで、男の酔いはさめていく。意識もクリアになっている。
「ここは?」
『お前はこれでもう、元の世界に戻ることはなくなった』
「なん、で」
『お前が我の声に応えたからだ。お前が元の世界に戻っても奴隷のような生活を送ることになるだろう? それに帰りを待つ家族もいない。家族はお前の給料をあてにしているだろう、だから過度に働く割にいつもお前はお金に困っている』
 それを聞いた瞬間、男の目から涙がこぼれてきた。たしかに電車のアナウンスを通したおそらく車掌の言う通り、元の世界に帰っても待っているのは地獄だった。会社で奴隷のような扱いを受けてることも、一人暮らししてても家族が男の口座から給料の八割を抜き取ることも、全部このアナウンスされてる声は知ってるのだ。
「ありがとうございます。僕をこんなところから救い出してくれて」
 目の前に誰もいないのに、男は立ち上がって頭を下げた。

8/11/2024, 3:31:50 AM