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あのとき私は20歳だった。

故郷を去ると告げた、ある男を、駅で見送った。
閑散とした駅のホーム。
冬の終わりはまだ遠く、粉雪をはらんだ曇天を、ふたりで見上げた。

男は細い指でリュックを持った。その指は青白く、不安そうな印象だった。
私はなにかありきたりなことを言おうとして、飲み込んだ。

「もう振り向かないから」
ふいに男が言った。

私はそこでやっと、この人はほんとうにここを去るのだと、知った。

電車の到着を知らせるアナウンスが響いた。
私たちは唇を重ねた…。
一瞬のぬくもりが全ての終わりになった。
男は私から離れ、電車に乗った。
お互いに目を逸らした。
未練なんか持っちゃいけない、別れとはこういうことなんだ。

やがて電車が去り、駅のホームは、再び静かになった。
私は立ち止まった。うつむいて自分のつま先を見つめた。

これから過ごすのは、彼の居ない土地、彼の居ない時間、それらが途方もない大事のように思えて、不安になって泣いた。

夕暮れがせまる時間になり、やっと家路につくことにした。
私は重くなった足をなんとか歩ませ、夫の待つ家に、帰った。

あのとき、お互い20歳だった。モラルを失った恋は、すぐに終わってしまった。
でも私の内側に、淡いともしびのような感情が、長い長い時間…消えることはなかった。

1/10/2026, 10:52:08 AM