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半袖

「何で着替えたよ」
「半袖は駄目でした」
「何で? ボロすぎた?」
「そのシャツで行くなら、あなたの査定をゼロにすると」
「何で⁈」
 マーマイトとケチャップの染みが複数、煙草の灰で空いた穴が二つ。コイツはあのボロシャツの持ち主である自分より5インチ背が高い。幅では負けていないから大丈夫かと思ったが、かなり「見せつける服」になってしまったのは否めない。
「…もしかして大胸筋?」
 ちょっと刺激が強過ぎたかもしれない。場末のパブに偵察に行くのだから、なるべく労働者っぽく見せたかったのだが。
 ダメ出しをして来た我等が上司は捜査能力は一流、社会性はゼロで、「血統書つきの野良猫」と呼ばれている。華奢な身体とお人形さんみたいな顔の持ち主だが、浮いた話はとんと聞かない。意外にオクテなのでは、と専らの評判だが、査定ゼロが怖くて誰も訊けない。
「上腕三頭筋を出すなと」
「どこよそれ」
「上腕の外側、この辺りですね。ドレスシャツをまくるのも駄目と言われました」
「俺らの肘から下に隠すべき部位ってあんの?」
「腕橈骨筋を出すなと」
 その筋が出ている辺りですね、とこちらの腕を指して教えてくれた。
「あの人やる気ある? 私情とか職権濫用とか何かそういう」
「二番目の被害者はきちんと背広を着込んでいて、労働者階級にしては小綺麗だった。彼の遺体が一番ひどい状態だったので、『覆われていること』に何か特殊な思い入れがあるのかも知れない。とりあえず背広で行って、怪しげな者がいたら可能な限り監視・追跡、最低でも顔を覚えて帰るようにとのことです」
「お前になんかあったら俺の査定はゼロだな」
「自分は皆さんより頑丈に製造されていますのでご安心ください」
 むしろあのシャツの持ち主が自分だとバレていることの方が怖い。
 まあ、人生はこんなものである。

 事件が絶え間なく起き、全てではないものの犯人を捕まえていく。
 そのうちにごく何気ない調子で、あいつの所有権が国家から個人に移ったというアナウンスがあった。人間にしか見えないモノの運命が大きく変わった訳だが、あいつ自身の態度は全く変わらなかった。それでも自分を含めた周囲の連中の意識-コイツは俺たちを助ける係、という依存心には、あまり変わった様子はなかった。
 その頃には我等が上司はシャツのボタンを全て留め、きちんとタイを締めるようになっていた。「野良猫」から「ブロフェルドの膝にいるやつ」くらいになった気がする。
「もうちょっとシュッとした猫だよな」
 猫好きの何人かが、シャムだの何とかブルーだのと盛り上がっていた。

「どしたよ」
 コイツが思い詰めた顔をするのは珍しい。特に最近ちょっと、いやかなりいい背広を着るようになってからは尚更だ。
「法令遵守上の問題について、折り入ってご相談が」
「俺でわかるような話?」
 新しい所有者が非道とか? いやいや。
「あの、自分は最近ある方と一緒に住んでいるんですが」
「一応初めて聞いたけど何となく分かってたわ」
「その、割と急に話が決まったんです。話が出た夜から住み始めたんですが、着替えがですね」
「ないよな」
「あったんです」
「?」
「今着ているものを含めて外出着が一ダース、室内着と寝間着が合わせて一ダースほどありました」
「用意いいな」
「それなんです。その、自分が住み始めた晩にすでにそこにあった訳です。それが全部、あつらえたと思われるものだったんです」
「え、何が問題?」
「その、その人は元々自分の個人情報にアクセスできる立場の方で」
「…だろうな」
「最近初めて知ったんですが、服を仕立てるにはかなり時間が必要ですよね」
「らしいな」やったことはないが。
「つまり一緒に暮らすかどうかという提案がなされるずっと前に、それらの服は注文されていたと思われます」
「うん」
「それは何というか…業務上どうしても必要なこととは言えないのではと」
「でお前としては、そのお方が職務上知り得た秘密を使ってお前の素敵な服を仕立てちゃったのはちょっと問題じゃないかと思ってて、それをどこぞに相談するべきか悩んでると」
「仰るとおりです」
「…今日うちに帰ってその人の顔をじーっと見て、穴があくくらい見て、それでも『これは不正だ!』って言葉が浮かんだら相談窓口に言え。何かどうでも良くなったら放置。以上。他には? 何かひどい目に遭ってない? 騙されてない?」
「いえ、全く」
「ホントに? 半袖着てキレられたりしてない?」
「基本は背広ですし、寝間着は下しか着ないので、半袖は特に必要ないですね」
「…今の話は聞かなかったことに」
「その、法令遵守上の問題なんですが」
「なんも問題ない。いいからその報告書書いたらすぐ帰れ」
「はい。安心しました。ありがとうございます」
 上司の「だいじなひと」が寝る時何を着ているか、というのは知らない方がいいことのような気がする。久しぶりに「査定ゼロ」という言葉が頭に浮かんだ。

5/29/2024, 3:51:02 PM