雨上がり
ソファに身を沈めた。
読書は最近集中できない。文字を追いかけていても全く入ってこない。昔はあんなに夢中になって貪るように読んでいたのに。
私は雨音に耳を傾けた。
雨はいい。雨は好き。
家から出なくていい理由になるから。誰に言い訳するわけでもないし、雨の日でなくても結局私は家にいるだろうけど。
雨の音を聞いていたい。
昔、付き合っていた人も、同じ事を言っていた。雨の日は家から出なくていいから雨が好きだと。私達はよく似ていた。二人とも言葉にすることが苦手で。あの人は私が読まないような本をたくさん教えてくれた。彼は読書のレビューサイトによく投稿していた。言葉にするのが苦手といっても、そういうところで、私とは本質的には違う。本当は語るのが好きな人だったのだ。内側に溜めた言葉を、自分の為に吐き出せる人だった。
彼は本来自分を開示出来る人。そう言う人は、ちゃんとした意味で他人と繋がることが出来るらしい。
あの人はもう、結婚して二人の子どもの父親になった。
雨の音に耳を澄ませていると、もっと古い、記憶の底に沈んでいた記憶が蘇った。
小さかった私。たしか保育園の頃。
窓際で、お迎えを待っていた。
みんな一人ずつ呼ばれて帰っていく中、私だけお迎えが来なかった。
その日も、雨が降っていた。
私は絵本を読むふりをして、窓の外の雨音ばかり聞いていた。
ページは開かれていても、文字は目に入ってこない。ただ、ぽたぽたと打つような雨音を今でも覚えてる。雨音が心地よくて私は聞くことだけに没頭していた。
今思うと、あれは雨の音に包まれていたかったのかも。
雨の音は安心した。私のちっぽけな世界を守ってくれてるみたいで。
そういえばあの頃、保育園に迎えに来たのは、母ではなく父だった。
濡れた背広の雨粒を払って、保育園の玄関に立っていた父を思い出す。
どこか所在なげで、ぎこちない父の姿。
私を見つけるとすぐに、ほっとしたように笑っていたっけ。
あの人も、今では父として誰かにそんな顔をしているんだろうか。
今は、父親も子育てにもっと積極的関わるように、と言われる時代だから、私の父のようなあんな所在なげな不安げな顔はしないだろう。
結局私だけあの頃と、何も変わってないんじゃないだろうか、肉体だけ大きくなって。
こんな日は雨の音だけ聞いていたい。
雨の音を空っぽの身体に染み渡らせたい。
気づけば、雨音が遠のいている。
窓の外に目をやると、路面に映る空の色が少し明るい。
ソファの上で縮こまった。
雨がやめば、世界がまた私だけ置いて動き出してしまうような気がする。
雲間から差した柔らかな日差しに、私は目を細めた。
勝ち負けなんて
僕は4年生の春に、負け組になった。
負け組の教室に行くのは気が重たかった。僕が負け組になったのは、通知表の生活欄に書かれた、もうちょっと積極的に発表しましょうに三回チェックが入っていたからだった。
お母さんは、習い事してなかったからだわ、ごめんなさい、と項垂れていたけど。
習い事なんて関係あるか、とお父さんが言った。
気にするな、来年勝ち組になるよう頑張ればいい、とお父さんは僕を励ましてくれたけど、目は悲しみでいっぱいだった。
ごめん。だけど僕は二人の息子だからさ。
私たちの頃は、学力だけで判断されたんだけど、とお母さんが言った。
そう、僕は学力だけなら成績は上位だ。
今の時代、それだけでは勝ち組とは言えない。
生活欄にあるような項目で判断される。
会話力、協調性とか、僕に足りないのは積極性。いわば、人間力だ。
それなら僕は負け組に行くのも仕方ない。
何より二人の子供だからさ。
やっぱり習い事行かせたら良かった、とお母さんがため息をついた。
そしてやってきました、負け組の教室。
そこには僕と同じく人間力が劣っていると判断された仲間たちが揃っていた。
顔ぶれのヤバさが、もうすごい。
ああ、僕もこの一員なのか。
1年生から負け組のやつは割と僕に優しい感じなのも、妙に切ない。
隣の席はケンジ。
こいつは2年の時まで勝ち組だった。
まあでも、図工の時間では二時間ずっと黙々と粘土を丸めて、肉まんを作っていたような奴だ。
ようこそ、とケンジと腕を広げて言った。
「ここが世界の底辺だ」
昨日見たアニメのセリフと同じだろ、それ。
負け組の担任の先生は、女の先生だった。アヤカ先生という名前で、すごく元気が良かった。
「みんなーっおっはよー」と教室に入ってきた。
今日からよろしくね、と先生は、教壇に立ってウインクをした。
先生のウインクは下手くそだ。瞬きにしか見えない。
負け組の教室では普通の授業が行われる。国・算・理・社・体。そこはあんまり勝ち組と変わらない。
負け組ならではなのが、道徳の時間だ。負け組になってしまった僕らがどうやって生きていけばいいか、を考える授業だった。
基本、人間力を身につけて勝ち組を目指すというのが授業方針だった。
ほぼ自由時間だった。放置だ。
アヤカ先生は「私は折紙してたよ!」と言った。
やっぱり先生も負け組出身だったんだ。そんな気してたよ。
勝ち組に戻るためには自分で何とかしないと、と僕は読書をした。
僕に足りない積極性が読書で身につくかどうかは分からない。でも本には大抵のことが書いてあるというし、友達のいない僕には読書しかない。
隣の席ではケンジが、トランプを細かく刻んでいた。
ある日、噂が流れた。
負け組の教室がなくなるらしい。競争心を煽るような制度はなくなり、負け組の枠も無くなるとか。
「えーっとね、みんなはもう負け組じゃなくなるみたい! 新しい制度は、勝ちも負けもなくって、みんなでいいところを見つけよう!って感じなの、素敵よね!」とアヤカ先生は言った。
正直、焦った。
僕は負け組の教室が居心地良くなっていたから。
勝ち組の奴らと一緒……? 勘弁してほしい。
ケンジが言った。
「どうせ無くなるなら燃やしちゃおうぜ」
そしたら本当に僕たちの行くところがなくなっちゃうじゃないか。
ケンジはこっそりと僕に耳打ちした。
「来いよ、夜に」
その夜、僕は家をこっそり出て学校へ向かった。
ケンジが本当に燃やすのか、確かめたかった。
ドキドキしていた。
教室にはケンジがいて、僕の顔を見ると、よお、来ると思ったぜ、とカッコつけて言った。
燃やす前に、僕たちは、黒板に「負け組教室ありがとう」とチョークで書いた。
下手なイラストも描いた。
ケンジは意外と絵が上手かった。
アヤカ先生の折り紙に火をつける。
先生は引き出しに今もたくさんの折り紙を隠し持っていた。
折り紙に火をつけてカーテンへ向かって投げた。
カーテンは燃え上がる。火のカーテンだ。
教室はあっという間に火に包まれた。
ごうごうと音を立てて教室は燃えた。
オレンジの炎が、鮮やかだ。
僕とケンジはグラウンドから教室が燃えるのを眺めた。
オレンジの炎から目が離せない。
火はきれいだ。ずっと見ていたい。
教室がなくなっちゃうのにこんな事思うなんて、僕はやっぱり負け組なのかな。
教室はどんどん火に包まれた。
僕の居場所が燃やされる。
お別れなんだ。これから僕はどうなるんだろう。放火なんて犯罪だ。負け組より転落じゃないか。色々悲しくて僕は泣いた。
隣でケンジが、「きれいだなあ」と言った。
その言い方があまりにも間の抜けた感じで、僕は泣きながら笑ってしまった。
「バカ」と僕は泣き笑いで言った。
「大丈夫だろ」とケンジが、オレンジ色に照らされながら言った。
アニメのヒーローっぽいカッコいい言い方だ。ずっとケンジといれたらいいのに。
僕たちは燃える教室をずっと見ていた。
6/2/2025, 3:28:52 AM