祖父母宅の、使われていない奥座敷にこっそり入る。
天井付近の小窓から外の光が差し込んでいるだけの、薄暗い部屋。
部屋にあるのは、古い本がぎっしり詰まった本棚、何が入っているか検討もつかない、重くて動かない木製の物入れ。
そして一番奥の壁際に、やっぱり古くて、けれど立派なタンスと鏡台が置かれていて。
そのお人形は、見事な花々の彫刻が施された鏡台の端っこで、お行儀よく座っていた。
くるりとカールした金色の髪、まつ毛の長い大きな瞳に小さな朱色の唇。
深い臙脂のゴシック調ワンピースを着た、それはそれはとても可愛らしいお人形だった。
彼女は、息をひそめてこっそりこの部屋に入り込んだのも忘れて感嘆を発した。
「わぁ、可愛い!!」
お人形を抱き上げると。
『ちょっと、気やすく触らないでちょうだい!』
綺麗だけれど、高飛車なソプラノ声がどこからともなく響いて、彼女はビクっと身を竦ませてキョロキョロと周りを見渡した。
『どこを見ているのよ、さっさとおろして!』
その言葉で、彼女は目を丸くして腕の中のお人形を見つめた。
「お人形さん……?」
『そうよ、鈍い子ね! 早く私をおろしなさいよ』
彼女は目を見開いたまま、お人形を元の場所に座らせる。
『ああもう、髪が乱れちゃったじゃない! スカートの裾も!!』
お人形の文句に、彼女は慌ててスカートをきちんと整えながら座り直させ。
人形の指示に従って、鏡台の引き出しから取り出したクシで髪を整えてあげた。
「お人形さん、喋れるんだね」
『当然でしょ。
私はとっても高貴な生まれの人形なのよ!』
「そうなんだ」
彼女は感心しきって頷く。
よくわからなけれど、こんなに綺麗なお人形なら喋っても不思議はないと納得できてしまう。
「ね、お人形さん。私と遊んで。おままごとしよう」
『おままごと——お茶会なら、一緒にしてあげてもよろしくってよ』
「お茶会?」
お人形が言う通り、彼女は近くの物入れからおもちゃのティーセットや、銀を模したらしいアルミの食器などを引っ張りだして並べる。
『そうそう。これがアフタヌーン・ティーよ』
「とっても素敵! おやつ、ここで食べたいなぁ」
『持ってくればいいじゃない。ティースタンドの一番下なら、野暮ったいおやつでも乗せるのを許してあげる』
彼女が奥座敷でお人形とともに過ごす時間は増える一方だった。
焦ったのは、彼女の二つ年上の姉だった。
——実は、彼女が一人で奥座敷に行くようになったのは。
毎日毎日、妹たる彼女にしつこく遊んでとせがまれるのが嫌になって、姉は少し意地悪して無視をしてしまったからだった。
そのうち、彼女は泣いてすがってくると思っていたのに。
彼女は毎日、奥座敷で楽しそうにお人形と遊んでいる。
「ねえ。たまにはお庭で遊びましょ? ずっとお家の中で過ごすのは良くないよ」
お母さんも心配しているから、と姉が付け加えると。
彼女は小首を傾げて少し考え、やがて頷いた。
「わかった、あとでお庭に行くよ」
姉にそう返事して、彼女は奥座敷へ向かった。
「お人形さん。今日はお姉ちゃんとお庭で遊ぶから、お茶会はできないの」
『……どういうこと? 私より、姉を優先するっていうの?』
ひどく冷たく感じる声に、彼女は驚いて固まった。
「ち、違うよ。明日はちゃんと、お人形さんと過ごすよ!
お母さんも心配しているみたいだから、今日だけだよ」
『ウソよ!』
ビリッ、と。
空気に稲妻が走ったように感じて、彼女は震え上がった。
『そんなことを言って——あなたも、あの子と同じように来なくなるのよ……!』
お人形から怒りの波動を感じ取り、彼女は縮こまりながらも。
「じゃあ、お人形さんも一緒に行こう!!」
彼女は精一杯の勇気を出して、お人形を抱き上げて部屋を駆け出た。
『ちょ……! やめてやめてやめて……!!』
お人形の悲鳴も聞かず。
彼女は廊下を駆け抜け、扉を開け放って庭に出た。
途端。
ガラスの食器が割れるような、甲高い悲鳴が轟いて、か細く消えていった。
「お人形さん……?」
抱きしめたお人形を彼女は覗き込んだが、応えはない。
——代わりに。
『これで、良かったの。私が、あの子を留めてしまったから……』
お人形とは明らかに違う、悲しげな声が聞こえた気がして、彼女は周りを念入りに見たものの。
その声は、二度とは聞こえず。
お人形の声も、もう聞こえることはなく。
彼女はギュッとお人形を抱きしめて、空に向かって小さく、
「——ごめんね」
誰にもとなく呟いた。
5/30/2024, 4:04:30 AM