『三日月』
夕方の薄紫色の空の中に、きれいに傾いた三日月を見つけた。
*
新月から数えて3日目に見える月、ということで三日月と親しまれているらしい。
以前、彼女から教えてもらった。
春と秋では見え方が違うことや、満月から欠けていく月は夜明け前に見えることから明けの三日月と呼ばれたり、真夜中に三日月は見えないこと。
今日のように三日月が昇り始めた夕方、彼女が楽しそうに話してくれたのを覚えている。
珍しく口早な話し方に加えて、月や地球の自転や公転の周期の話に進んでしまい、さすがに俺はついていけなくなった。
彼女の話に、慌ててブレーキをかける。
「月とか星とか、好きなんですか?」
暗い場所が苦手なのに、暗闇を照らす月や星には心惹かれるものがあるのか、妙に詳しかった。
もし好きなら、知識欲だけでも満たせそうな博物館や科学館に足を運ぶのもいいかもしれない。
「中学の理科の教科書に書いてた」
「中学校、ですか……」
ロマンの欠片もない彼女の答えに、ある種の彼女らしさを感じた。
彼女の通っていた母校は、地元屈指の競争率と高偏差値を誇る進学校である。
中学の頃は、きっと人生で一番、勉強に力を入れていた時期のはずだ。
「てゆーか、こういうの好きなのはれーじくんじゃないの?」
「さすがに自転公転の周期に楽しさは見出せませんよ」
「潮の満ち引きとか、月の引力とか好きそうじゃん?」
確かに、文学的にも神秘的ではあるが、科学的な仕組みに惹かれているわけではない。
「趣き深いとは思いますけど、どちらかというと俺はスピリチュアルなことをでっち上げるほうが好みではありますね?」
しっかりと好みの線引きを明確にしておくと、彼女は首を傾げた。
「どういうこと?」
「例えば、……そうですね」
三日月を背に歩き始めた彼女の後ろをついていきながら、俺はひらめく。
「三日月は右側が明るいですから、右側からゆっくり振り返りかえって三日月を見ると、幸運が引き寄せられる、なんていうのはどうです?」
「右側から?」
素直に右側から振り返る彼女の唇に、俺はそっと自分の唇を押し当てた。
「ほら」
ゆっくりと唇を離したあとも、まだ惚けている彼女の頬を軽く突く。
「幸福が舞い降りてきたでしょう?」
「ん、なぁっ!?」
ハッと我にかえった彼女が、ボフボフとカバンで攻撃してきた。
「自分がしたかっただけじゃん!?」
「そうですね♡」
悪びれることなく彼女の言葉にうなずいて、帰路についたのだった。
*
……そんな、初々しいやり取りをした時期が俺にもあった。
茜色の空にひっそりと佇む三日月を見つけた俺は、懐かしさに浸りながら帰宅する。
「戻りました」
「お疲れさま」
玄関のドアを開ければ、彼女が出迎えてくれた。
「……なんか、上機嫌だね?」
「そうですか?」
人からは表情筋が動かなさすぎて、能面だ鉄仮面だと言われているが、つき合いの長さだろうか。
彼女には俺の機嫌の良し悪しがわかるようだ。
「昔、あなたと三日月についていろいろ語り合ったことを思い出したからですかね?」
「三日月?」
外に三日月が出ていることを伝えると、彼女は腑に落ちたのか、顔をしかめる。
「あぁ。もしかして、あの胡散臭いおまじないのこと?」
「おや。覚えててくれました?」
じっとりとした眼差しで、彼女は俺を睨みつけた。
「あんなところでキスされて、忘れられるわけないよね?」
往来のあるなかでのキスに抵抗感を拭えない彼女は、外出先でのハグですら躊躇いを見せる。
「すみません」
いまだに根に持っている様子なので、ここはしおらしく謝っておいた。
「あの頃は、あなたに触れる口実が欲しくて必死だったんですよ」
すぐに照れてしまう彼女が全て俺のせいにできるように、罪悪感を抱えなくてすむようにいろいろと画策したものだ。
「……なにそれ」
彼女は不服そうに唇を尖らせていじけてしまう。
「そんなヘンテコな口実なくても、許してたつもりだもん」
「ええ。伝わっていますよ」
機嫌を直してもらうために、彼女の頬にキスをする。
「今日は、ゆっくり休めました?」
「うん」
ネクタイを緩めながら靴を脱げば、彼女からもキスを返してくれた。
「暇だったからワイシャツのアイロンがけしてた」
「え、マジすか。助かります」
「でも炊飯器のスイッチ、押すの忘れてたからまだご飯は炊けてない」
気恥ずかしそうにする彼女に、俺の口元が緩む。
「ふはっ。なら、先に風呂ですかね?」
「ん。そうして」
俺のカバンとジャケットをはぎ取って、彼女は俺を風呂へと押し込んだ。
1/10/2026, 8:06:03 AM