ゆじび

Open App

「奏」

死の縁におかされた者が最後に思い浮かべるものは一体何なのだろうか。


今は昔。人々に希望を与えた者がいた。
彼女は奏。彼女の歌は人々の心を救い、暖かい。
彼女は救世主だった。
戦いの絶えない国で生まれ育った彼女は戦いの絶えない国で歌を歌った。
人々に光を与えて回った。

彼女は奏。美しい黒髪をなびかせた美しい女性。
彼女に恋をした者も少なくなかった。
彼もその一人だった。
彼は紅。彼は歌姫を守る護衛だった。
誰よりも彼女のそばにいながら、誰よりも彼女に恋い焦がれていた。

ある朝、彼女は言った。
「戦いは絶えないものだ。終わらないものだ。
人は一体何のために戦うのだろうか。」
その言葉は希望に溢れていて、この先を切り開くものだとこれを聞いた彼は思った。
けれど彼は分かっていなかった。
この言葉がどれだけ人間に失望し、絶望した言葉なのかを。


今日も彼女は歌を歌った。
人を救うためと、ただひたすらに。
その目からだんだん光が失われていくのを目の当たりにした彼はなにも言えなかった。

今日も彼女は歌を歌った。
人を救うためと自分に言い聞かせながら。
その目には光などはじめからなかったようだ。

今日彼女は歌を歌った。
いつもと違った絶望の歌を。
彼女のきれいな歌声が掠れた炭のように消えていく。
戦いは終わらぬと天高らかに歌い放つ。
その日彼女は襲撃にあった。

いつものように歌っていたときだった。
弓が彼女の肩を掠めた。
血がにじむ。戦いとは終わらぬものだと、体を使って表しているようだ。
彼女は歌った。
馬に跨がり逃げる最中も。
生命を捨てたような。それでも存在感のある歌声。

彼は馬から降りた。
彼女を馬にのせ、馬を走らせた。
彼は敵を滅ぼすつもりだ。
戦いを続ける者だ。
彼は言った「貴女の歌が私の救いだった。」と。
誰にも聴こえぬ声で。





彼女は泣いた。
馬に乗りながら。
馬の止めかたなど分からない。
馬はただ走り続けた。
彼が乗り移ったように、彼女を遠くへ遠くへ逃がすように。
気がつくとそこはのどかな森だった。
馬は疲れたように木のそばで腰を下ろした。
彼女は近くの岩の上で静かに座った。
彼女は分かっていた。
彼はもういないのだと。
ありがとうも、さようならも、ごめんねも
なにも言えなかった。
苦しい。寂しい。このまま声帯を切り裂いて歌えぬ体になってそのまま命を絶ちたい。


彼女は分かっていた。
自分が本当は彼を好いていたと。
彼女は分かっていた。
きっといつか戦いは終わるものだと。
彼女は分かっていた。
歌はなければと。

弔いの歌でも、希望の歌でもない。
ただの私の歌。
私の救いだった彼に私の無事を知らせる歌。

彼女は歌った。
その歌声に森が共鳴するように。
葉が微かに歌う。

美しい声だった。
今この瞬間は戦いなどなく、平和だった。
生きていることを嘆き悲しみ。
生を喜び唇を噛む。

唇から滲む血も。
瞳から流れる涙も。
これはきっと生きている私の無事を知らせる命の叫びだ。



あぁ。私は今とんでもなく幸せなのかもしれない。





11/20/2025, 3:39:16 PM