南葉ろく

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 思い出せないことがある。
 たとえば、あなたの顔。あんなに好ましいと思っていたあなたの笑顔も、どこか朧げで。日だまりのようにあたたかなものだったことは、覚えている。けれど、文字で景色を思い起こすことはできても、心のカメラは生憎とあなたを現像してはくれないのだ。
 たとえば、あなたの声。春のそよ風のように耳を心地よくしてくれる、そんな声だった。はずだ。歌うように軽やかなあなたの声を聞くたびに、こころが踊ったものだ。そのような記憶はあるけれど、心のレコードは壊れたようで、ノイズがひどくてまともに聞こえやしない。
 思い出せないけれど、辛くはない。ポンコツな脳みそはあなたとの思い出を徐々に、少しずつ薄めてゆくけれど。あなたと出逢ったから、この手から零れるものがあるのだから。
 ……本当は零したくはない。ないけれど。失うものがあるのは、きっと、幸せなことなのだと。これは、あなたが教えてくれたこと。
 ああ、さみしいな。この感情も、あなたがくれた。
 そっと自分の手を握る。かつて、この手はよくあなたの手を握っていた。どうか行かないでと縋り付くように握った手は、もうどこにもないけれど。思い出せない朧気な日々の温もりをかき集めるようにそっと、目を閉じる。
 そう、辛くはない。確かにあの日々はこの世界にあったのだから。

 いつかきっと、答え合わせをしよう。その日を思えば、笑顔だって、零れるものだ。



テーマ「あの日の温もり」

3/1/2025, 8:52:58 AM