「落ちていく」
夜明け前の空は、深い藍色だった。高層ビルの屋上に立つ麻衣は、冷たい風に髪をなびかせながら、深い深呼吸をした。地上から数百メートルの高さ。見下ろすと、街の明かりが無数の星のように輝いている。
この場所に来るのは、これで三度目だ。一度目は単なる好奇心。二度目は勢い。そして三度目の今、彼女はここに、ある決意を抱えて立っていた。
「やっぱり来たんだね。」
背後から聞き慣れた声がした。振り向くと、そこには直樹が立っていた。彼もまた、同じ屋上にいるのが似合うような人間だった。無造作な髪、くたびれた革のジャケット、そしていつも少し挑発的な笑みを浮かべている。
「なんで分かったの?」
「君のパターンはだいたい分かるよ。逃げるふりをして、本当は一歩踏み出したいだけだって。」
麻衣はため息をつき、欄干に寄りかかった。
「分かってるなら、止める必要もないでしょ。」
直樹は肩をすくめた。
「止めに来たわけじゃない。むしろ、俺も一緒に落ちるつもりだから。」
その言葉に、麻衣は驚いて顔を上げた。
「ふざけないで。」
「いや、真剣だよ。」直樹の声は冗談めいていなかった。「ただし、本当に飛び降りるわけじゃない。俺たちはもうすでに落ちてるんだよ、麻衣。」
彼女は直樹の顔をじっと見つめた。
「落ちてるって、どういう意味?」
「誰かを信じることや、新しいことを始めることってさ、結局は落ちる覚悟を決めることなんだと思うんだ。怖いよな、失敗するかもしれないし、裏切られるかもしれない。でも、落ちる前に立ち止まってる方がもっと怖いだろ?」
麻衣の胸の奥で、なにかが小さく震えた。彼の言葉は、彼女が恐れていたことの核心を突いていた。
「それで、一緒に落ちるって?」
直樹は笑みを浮かべた。その笑顔はいつもの挑発的なものではなく、まっすぐで温かいものだった。
「君が怖いなら、俺も怖いことをやってみる。それだけの話さ。一人で飛び込むより、誰かと一緒の方が少しはマシだろ?」
麻衣は視線を再び地平線に向けた。夜が明けるまであと少し。空が薄紫色に染まり始めている。
彼の言葉に、心が少しだけ軽くなるのを感じた。
「じゃあ、どこまで落ちるの?」
「どこまでだって。一緒なら大丈夫だろ。」
麻衣は微かに笑い、風の冷たさを忘れるように目を閉じた。
「じゃあ、信じてみる。」
二人は肩を並べ、遠い地平線を見つめた。その先に待つ未来がどんなものかは分からない。だけど、彼の言葉が確かに、彼女を支えていた。
11/23/2024, 2:18:16 PM