あにの川流れ

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 「ウカ、外に出たいなら…ほら、靴を履いてくれると助かるんだけれど」
 「…、う~~…」

 ガードゥーは口の中だけで呟いた。
 唸りたいのはこっちだ、と。

 元気のないつむじを見るのはめずらしい。そもそも、そのつむじ自体、あまり見る機会はなかった。だいたいの時間を、自由気ままに部屋の天井付近をふよふよと浮いて過ごすからだ。
 水槽の魚のように。
 シアターで観るドキュメンタリーの鳥のように。

 ダイニングチェアに座るウカは顎を膝に乗せたまま、つま先をきゅっと曲げて逃げたがった。
 尖ったくちびるはぽそぽそと言葉を落とす。

 「でもね、ガードゥー、だって、重たいから」
 「重たくは…ないと思う。職人さんとけっこう細かく相談したから、できるだけ軽くしてもらったつもりだよ」

 ウカはじーっとそれを見つめていた。本人なりに睨みつけているつもりなのだろう。
 あまりにも睨みがへたっぴだ。

 つやを失った床板の上に並べられる一足のローファー。その色はヴェールをまとった雪花石膏のような、淡くやわらかなアイボリーに近い。色見本を並べて小一時間かかって選ばれた色だ。
 新品の皮のにおいが鼻に残るかも知れないが、それは使っていればいずれ馴染むもの。

 そう何度も伝えたが、ウカはこの三か月間、この話題で眉を寄せなかったことはない。靴下だって何度放られたことか。
 いまも、丸まってそのへんに落ちている。

 「なにがそんなに嫌かな。…重たいのは…そうだなぁ、我慢してもらうしか、ないと思うよ」

 縦に長い体躯を縮ませたガードゥーが、その革靴を手に取った。この家に靴のどれよりも軽い。
 そりゃあ、裸足には敵わないが。

 靴職人がウカの足の形を測り、木型を削り出し、それに合わせてつくられた、ウカのための靴に他ならない。ものづくりの手がその足に触れたときも、いつものスマイルが引っ込んでいたことをガードゥーは思い出した。
 重たい、息ができない、落ちる、窮屈。
 聞き飽きるほどに。ウカに他の語彙力はなかった。くり返しくり返し、「だってね」「でもね」と。

 「どこ、つれてく気なの」
 「どこって、ウカが外に行きたいって言ったか。だからウカが歩きたい場所に行こうかなって」

 ガードゥーはやさしく言い含めてゆく。
 あまり柄ではなかったが、目の前のいきものを、もう幼児とでも思うようにしている。当の大きな幼児は、うつむいたままきょろりとそのうつくしい目玉を動かした。

 「くつを、はいて?」
 「うん」
 「おそとに?」
 「そう」
 「どうして?」
 「外じゃ……浮くのはちょっと。ひとが多いし、目立つから」
 「だっこでもいいよ。ガードゥー、だっこしてくれたでしょ?」
 「この前、ポリスに怪しまれたばかりじゃあないか」

 くしゃりと顔のパーツが中心に寄った。

 「せっかくの君のための靴だから、店主に見せに行かないと」
 「ガードゥーがよかったって言ってきて」
 「そうもいかないよ」
 「どうしても?」
 「どうしても、かなぁ」

 そろそろと、チェアからつま先が下ろされる。
 ちょん、と光沢のある革靴に触れて。昨日揃えたばかりのウカの爪が、同じような光沢で光を反射させていた。
 ツーっと革靴のつま先からすべってゆく足先が、ようやくその肌色を隠してゆく。おっかなびっくりな仕草で、用心深く、猜疑心を潜めるように。

 ああでも、その肌色が、なめした革ではなく糸の繊維に包まれるまで、どれくらいかかるだろうか。

 ガードゥーはやはり、思い切り唸りたかった。



#素足のままで



8/27/2025, 9:41:49 AM