色とりどり
子供の頃、一度だけ迷子になったことがある。
人の流れの中で母の姿を見失い、どうしていいか分からず、気づけばその場に立ち尽くして泣いていた。
「どうしたの?」
そう声をかけてくれたのが彼女だった。
白いエプロンをつけた少し年上の女の子。近くのパティスリーが家だと言った彼女は、ここだと危ないから、と僕の手を引いて店の中に連れていってくれた。扉を開けた瞬間、甘い匂いに包まれて、泣いていた理由がどうでもよくなった。
ショーケースの中には色とりどりのケーキが並んでいた。
赤や黄色、白や淡い緑。きらきらしていて、まるで別の世界だった。彼女は店の奥から小さなお皿を持ってきて、これ食べる?といちごのタルトを切り分けてくれた。
そのタルトはとても美味しかった。
味そのものよりも、安心した気持ちと、彼女の優しい声と、目の前に広がる色彩が混ざり合って、胸いっぱいになった。あのときは気づいていなかったけれど、今思えば、あれが初恋だったのだと思う。
母が迎えに来て、僕は母と一緒に何度も頭を下げた。
名前を聞く勇気はなく、ただ彼女の笑顔だけが色とりどりのケーキと一緒に心に残った。
あれから数年が経ち、高校生になったある日。
放課後、友人と立ち寄った街のパティスリーでショーケースを覗いていると、視界の端で誰かが立ち止まった。
妙に気になって顔を上げると、歳の近い女性が立っていた。あのときより大人びているけれど、彼女だとすぐにわかった。
目が合った瞬間、彼女は少し驚いてから微笑んだ。
「もしかして、昔、迷子だった子?」
その一言で、時間が一気に戻った。覚えていてくれたことが、ただそれだけで嬉しかった。
あのとき聞けなかった名前を知り、ケーキと一緒に少しだけお茶をした。
話をして、やっぱり好きだと思った。でもその気持ちは、何かを求めるものではなかった。彼女を手に入れたいというより、彼女に幸せでいてほしいと願う、穏やかな感情だった。恋は、いつの間にか愛に変わっていたのだと思う。
特別なことは何もしなかった。
別れ際、ショーケースの中のケーキは、あの日と同じように色とりどりだった。
好きになることは、相手を求めることであり、結ばれることで完成するものだと思っていた。
けれど、完成しなかったからこそ、今も形を変えずに残っている想いがあることを、少しずつ理解するようになった。時間が経っても色褪せない記憶があるのだと。
色とりどりのケーキと一緒に胸に残るこの記憶は、間違いなく僕の初恋だった。綺麗で、大切で、これからも静かに心を彩り続ける思い出だ。
1/8/2026, 4:35:58 PM