草臥れた偏屈屋

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妻が先立ってしまった。60年目の結婚記念日に連れ添ってきた妻は、棺の中でとても小さく見えた。化粧が施された顔はあまりにも彼女らしくなく、一瞬別人にも感じた。せめて彼女の好みの化粧品を聞くべきだったと後悔したが、妻は悩ましい顔を浮かべてはいなかったため綺麗だと伝えることにした。私は妻の薬指から指輪をそっと外し、私の小指に嵌めた。そこからというもの、あまりにも順序的で現実的ではなかった。いつ間にか帰路につき、残された家に残された私が住み着いた。娘や息子たちが私を心配していたが、何故か、私は家に帰れば妻が居ると思っていた。心配を振り切り家に帰れば、そこはあまりにも日常的だった。クローゼットを開ければ妻の香りが、洗濯籠には妻と私の衣服が混ざり合っていた。妻は出かけているのだろうかと、錯覚してしまうほど私は妻に酔っていた。酔いのまま私は結婚記念日に用意したレコードを出した。レコードプレイヤーに嵌め、針を置けばピアノの旋律が流れてくる。「ワルツ・フォー・デビイ」は、若い頃妻と私がよく踊っていた曲だ。右腕を妻の腰に回し、左手は妻の手を握る。そして、曲に合わせて軽くステップを踏んでいくと、やはり妻は生きていた。しっかり私と共に生きていた。私の瞳が君の美しい顔を捉えて離さない。そうだった、君はローズ色の口紅が好きだったね。鈴蘭の香水を纏わせて、チークは華やかに仕上げていたね。初めて君に会った日のこと、笑い合った日のこと、君が赤子を抱いている日のことを、ステップが進むにつれ鮮明になっていく。何故だろうね、私は君と過ごしてこんなに幸せだったのに涙が溢れて来る。君との思い出が蘇るんだ。まるで…

「踊るように」

9/7/2023, 1:49:57 PM