傷口に塩

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『さよならを言う前に』


「もう時間だ」
彼はにっと笑みます。

私は「もう行っちゃうのか?」とか「まだここにいろよ」とか、伝えたい言葉が喉に突っかかって、そのまま目を伏せてしまいました。

生ぬるい風が頬を撫でて、ひぐらしがカナカナと鳴いて、落陽のオレンジに夜が溶け込み始めていました。
肌に張り付く湿気も、これから降るだろう雨の匂いもしました。でも、この時間だけは、この夕日は、彼を照らし続けていて欲しいとさえ思いました。

私が「さようなら」を言いかけた時、
「ちょっと待って」と彼が口を開きます。



「最後に…、見ておきたい。忘れないように」



と、こぼした彼は、先程までふざけたように笑っていた面影をなくすほど、突如、神妙な面持ちになりました。

息をしたら顔にかかってしまいそうな距離で、身動ぎしてしまいましたが、なんとも真剣に私の顔を見つめるのです。

まるで…もう私たちは二度と会えないようでした。
私は、彼の底知れぬ、しんとした黒い瞳が恐ろしくなって目を逸らしました。そして、なんだか悲しくなって、胸の奥底が冷える気がしました。
理由は聞いてはいけない気がしました。

暫くすると、彼のいつもの明るい雰囲気が戻ってきました。戻ってきたと思ったら、こんなことを言うのです。



「あほ面」



彼はまた、にっと笑むのでした。


さようならを言う前に、笑ってくれたおかげで、
私の記憶の中の彼は、ずっと笑顔なのです。

8/20/2024, 4:25:42 PM