Haru

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「それじゃあ、今日はおしまい。気をつけて、帰りなさい」
担任の中島が帰りの連絡を終えて、おもむろに席を立った
「日直、お願い」
彼のゆったりとした言葉に反応し、日直が号令をかける
「気をつけ、礼」
日直の声に促され、生徒たちも頭を下げた
ひとときの間もなく、クラスが喧騒に包まれる
心なしかそわそわとしたクラスの空気は、今日が特別であることを物語っていた
今日はバレンタイン
誰かさんの命日という話もあるが、今の日本では愛する人や友人にチョコを渡す日だ
好きな人にチョコを渡すという設定は高校生にとってとてもロマンチックなものである
中でも今年は異常、昼休みに2組のカップルができたらしい
だからこそクラスの男どもは思うのだ、わんちゃんあるかも、と
だがそれは幻想だ
どう足掻いても貰えないやつは貰えない、結局は日頃の行いである
かくいう僕もそこまで親しい女子はいない
結果はやっぱり見えている
時間を見ると4時半を過ぎていた
そろそろ部活にも行きたい時間だ
だから僕のからだ......そろそろ諦めて動いてくれっ


中央階段を四階まで登り、右の端へと進んで行く
僕の所属する部活は吹奏楽部だ
......吹奏楽部なんだけど、実はほとんど稼働していない
栄西高校の吹奏楽部はとても弱い
顧問もおらず、幽霊部員が大半であるためコンクールにも出場できていない有様
毎日来ているのは僕くらいである
音楽室の扉を開けると、埃がかすかに舞い上がった
この音楽室は第一音楽室
授業で使われているのは第二音楽室なので、ここは吹奏楽部の部室兼物置になっている
昨日までテスト期間だったこともあって埃が溜まっていたのだろう
いつもの如く窓を開け、軽い掃除に取り掛かる
特段綺麗好きというわけではないが、汚いものが好きなほど特殊ではない
音楽が大好きな身としては気になったりするのだ


準備室から椅子とトランペットのケースを取る
椅子を窓のそばに置き、楽器の準備に取り掛かった
窓の外では陸上部の掛け声や、金属バットの軽快な音が青い空を駆け巡っていた
「あのー」
「はいっ」
心臓が飛び跳ねる
反射的に顔を振り向けた
そこには高校生らしき制服を着た女子生徒が
胸に光るのは栄西の高章、少なくともうちの生徒のようだ
「......はい、どうしました?」
状況の整理が追いつかないが、なんとか対応する
「すいません、転部希望なんですけど。先生に聞いたら朝川先輩のところへ行けって言われて......」
「ああ、なるほど。僕が朝川です」
だんだん状況の理解が追いついてきた
彼女は一年生の入部希望者。なにかのきっかけで吹奏楽部に興味を持ったのだろう
だがうちの吹部は弱小の中でも弱小。満足にも練習ができないだろう
せっかく興味を持ってくれたのに惜しいが、仕方ないな
「実はうち、ほとんど活動してないんだ。入部しても満足に練習できないと思う。他の部活がいいんじゃないかな?」
「いや、この部活がいいんです!」
「うーん...どの楽器も教えられないんだよねー」
「先輩、トランペット吹いてるじゃないですか」
......思ったより食い下がってくる
まあ確かにトランペットは中学の頃からやっている
ある程度なら教えることは可能だろう
ただ、うちではコンクールにも出られず、合奏もできない
やはりおすすめできるものではないだろう、だがどうしたものか
「えっと、名前はなにかな?」
「岩下香澄です、高校一年生です」
「岩下ね。さっき転部って言ってたけど、前は何してたの?」
「陸上部です。いつも窓の下を走ってますよね?」
「ああ、確かに走ってるね」
「あれです、走るの好きなんです」
「......陸上はもうしないの?」
「そうですねー、仕方ないですね。心を奪われちゃったので」
なるほど音楽に一目惚れしたのか、その気持ちとてもわかるなあ
「音楽は好き?」
「大好きです」
そう間髪を入れずに答えた彼女
その凛とした瞳は全てを貫くような強さを持っていた
こんな情熱を持った子、うちの学校にはなかなかいない
こんな子が部活にいたらきっともっと楽しくなるだろう、そう思うとこれからの部活にすごくわくわくしてきた
もう迷う必要はない
「入部希望のプリントは僕が受け取るね。改めて、これからよろしく」
そう言って香澄の前に手を差し出す
「ありがとうございます!」
笑顔で答えた彼女は力強く僕の手を握った


「もうそろそろ終わりかな」
入部関連の申請を適当な先生に丸投げし、二人で色々な楽器を触っているといつの間にか窓の外は橙黄に染まっていた
窓のそばまで寄ってみる
赤と紺のコントラストが美しく空を飾っていた
「綺麗だな」
隣にいる香澄は僕の顔をちらりと見て答えた
「そうですね」
静かな時間が続く
「先輩」
隣で空を見上げていた彼女が口を開いた
「どうしたの?」
瞼を閉じて彼女はゆっくりと言葉を紡いだ
「私この部活が、この教室が、音楽が大好きになりました」
その声はどこか神秘的で透き通っている
香澄はゆっくりと、瞳をひらいた
「でもずっと、ずっと前から先輩と先輩のトランペットが大好きでした」

二月の温かさを含んだ冷気が二人を優しく包んでいた

2/14/2023, 6:17:32 PM