※センシティブ(流産のお話が出ます、ご注意ください)
心拍が、聞こえなかった。ちっちゃくてでも、でもちゃんとこの前には一人分ここに心臓はあったのに。
「ねぇ、見えん。」
うん。
「涙で、曇ってっ、まぇが、みえんよぉ。」
うん。何も見えない。雲って、なにも。
苦しい、辛い。悲しい。そんなもんじゃ表せない。そんなもんじゃ、なあ、
差し込んだ光が、瞬く間に消えてしまった。厚い雲の下に残された俺らにまた、希望は持てるのだろうか。
―――
いくら春先と言っても太陽が差し込まなければ風で身体が冷えてしまいそうな季節に、一人でベランダに出てくれるなと文句を言うも、ろくに外出できていなかったからこれくらい許せと言われてしまえば部屋に入れ込むことは強行できなかった。
下校時間なのだろうか、道を小学生がはしゃぎながら帰る様子を微笑ましそうに見下ろす彼女の横顔を見るのはそれなりに悪くなかった。
「曇り空ってさぁ、なんかいいよね。」
生憎今日の天気は曇りのち雨模様で、今にも泣き出しそうな空を見上げてそういう妻は、やけにご機嫌だった。
「曇りってか、雨降りそうだけど。」
「それでもさ、雨さえ振り出さなきゃうちらの勝ちじゃん。」
「どういう理屈だ。」
「なんか、あれよ、まだ希望はある的な?光が差し込む余地が雨よりもありそうじゃん。」
「そうか?半分こじつけに近くないかそれ。」
「いいんだよ、細かいことは考えなくて、とりあえずさなんかあれじゃん、あれよあれ。」
「ワクワク感があるとでも言うんだろ?」
「そう!それ、それ」
「テキトーな考えだな。」
「前向きって言ってくれたまえ。」
数年間、夫婦で不妊治療に向き合ってきた。二人とも子供が好きで、自分たちの子供が欲しくて年齢というリミットに追われながらも二人とも希望を持って努力した。
そうして念願叶って第一子を授かった。
長年覆ってた雲が去って、俺たちにも光が差し込まれたと思った。この上ない幸せだったのだ。
だが、その子は生まれる二ヶ月前にこの世を去ってしまった。
急な死で、原因は不明の死産であった。
誰も悪くないのはわかっていたが、深い負の苦しみが俺たちを襲った。
立ち上がるのには時間がかかった。
それから妊活は、よく話し合って諦めることにした。何よりももう苦しみたくない気持ちの方が大きかったのかもしれない。
自然に任せようと、建前で小さな希望を一つだけ持つふりをして二人とも、同じ思いで子供のことは諦めたようなものだった。
あれから二年。
まだ哀しみは癒えたとは言えないが、隣に彼女がいるのならほんとうにそれでいいとも思えた。
「ねぇ、うちらの人生ってさ、ある時期、曇ってて、なんも見えん時期があったじゃん?」
随分抽象的な話ではあったが、その言葉が何を指すかはすぐわかった。
「うん。」
「でさぁ、言えんかったし、不安にさせたくもなかったからさ、言わなかったけど、暫く月のもの、止まっててこの前念の為産婦人科行ったら、」
最後に行くにつれて、言葉は途切れ途切れになって震えていく。こちらを見つめる瞳も少し潤っていて、これもまた震えていた。
「赤ちゃん、いるって。」
「あぁ、」
口からこぼれおちた俺の息も、小さく震えた。
「それで、これって、期待していいのかなぁって、思って。」
間違いなく、これは光だと思った。あの日を境に見えていなかった光だと。
もちろん、考えたくもない不安はある。けれど、再び差し込んだ光を逃してしまいたくはなかった。
瞳から、重力に耐えきれなくなった涙がこぼれ落ちる。
俺は無言で、彼女を抱き寄せた。
きっと、俺らに限らず、人はいつも雲りの中にいるのだと思った。いつでも、不安は消えないし、目の前の希望がずっとそこにある訳じゃない。けれど、それは絶望ではないのだと思う。
だから、俺はもう一度、差し込む光に手を伸ばしたい。
そしてもう一度、腕の中にある幸せを、俺は深く抱きしめた。
―――ひかりさす
お題【雲り】
3/23/2025, 1:53:46 PM