あかるあかり

Open App

『風のいたずら』

あのとき、向日葵が揺れなかったら。
そんなことを考える。

だが向日葵は揺れた。
揺れなかった世界は、僕にとっては存在しなかった。
夏の夕暮れ、やにわに暗くなった視界、さっきまでの青空は雲に覆われ、冷たい風が強く吹いた。向日葵が揺れた。
大粒の雨が頬を撲った。
そのとき向日葵の足許できみが鳴いた。
大きな段ボール箱。ピンクの文字が無責任に跳ねる。
『かわいいよ! だれかひろって!』
夏の嵐が迫る。
段ボールの蓋は閉じられていた。
まさかと思いながら押し広げ、そのなかにきみを見た。弱い声をあげるきみはまだ目すら見えてない仔猫だった。
選択の余地はない。
僕は箱ごと抱きあげ、嵐から逃げるように走った。

風が吹いて向日葵の群を割らなかったら、きみと僕は出会えなかった。

動物病院の医師に診てもらい、生育のあれこれを学んだ。本も買った、ネットも頼った。
きみはすくすくと育った。

ひとり暮らしの僕が、前触れもなく授かった家族だ。
きみを家に招き入れてから、ペット可の部屋を探し、そして引っ越した。ちょうど転居は考えていたので、タイミングとしてはよかったんだろう。
そもそもの転居の理由だった彼女も僕の選択に頷いてくれた。ペット可の分高くなった敷金は彼女と半々出しあった。

同棲した彼女はすぐに僕の婚約者となり、やがて誓いを交わして妻となる。僕が父となり、彼女が母となり、きみは姉となった。
赤ん坊の眠りを守る使命を負ったようにきみは種族違いの妹の枕もとで丸まり、妹の容赦ないいたずらに怒る素振りもなく、尻尾を振ることで赤ん坊をあやすスキルまで身につけたものだ。

赤ん坊の育ちははやい。
きみもどんどん歳を重ねる。
僕と彼女の娘、きみの妹はもう高校生だ。

あの日。きみという命が尽きそうだったあの夏の嵐の寸前の夕暮れ。
あの向日葵を揺らした風のいたずら。

あの風がなければ、きみと僕は出会えなかった。

そんなことを考えながら、僕は庭につづく窓を眺めていた。庭には毎年向日葵が咲く。僕と妻、どちらが提案したのかもう覚えていない。
あのときのように、夏の風は向日葵を揺らす。

細い声できみが鳴いた。
この週、僕は夏季休をとっていた。連続五日間。
妻はもう少し長く七日の夏季休。娘は高校の夏休み。家族は全員が揃っていた。
寝床に横たわり、きみは時々うっすらと目をあける。
尻尾がぱたりと動く。妹をあやしていたあの頃のように。
娘――僕と妻の娘、きみの妹はタオルに顔を埋めていた。声は押し殺していたが、隠せてはいなかった。

妹を慰めようとするのか、きみの尻尾はぱたりぱたりと振られる。
か細い鳴き声。
視線をゆるりと巡らせる。妹をみて、僕の妻、僕、の順に巡った。

そしてまた鳴いた。
きみは疲れたように、満足したように、こうべを寝床に置いた。
それがきみの旅立ちだった。

ああ、きみと暮らした長く短い日々。
僕は幸せだったよ。妻と娘と、そしてきみがいて、幸せじゃないわけがない。
あの日。きみというかけがえのない生命を無責任に棄てた誰かを、あの無慈悲なピンクの文字を、思い出しては幾度憤っただろう。

そしてあのとき吹いた風に、きみを照らした向日葵に、どれだけ感謝しただろうか。

僕は目を閉じた。

1/17/2025, 11:11:27 AM