ね。

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「ぼく、なかないよ。」
椅子に座った彼は、私の目をまっすぐ見つめてそう言った。両膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめながら。
まだ3才にも満たないのに、しっかりした口調だった。私は彼の手を取り、ただ頷いた。必死で何かを守ろうとしている、そんな緊張感が彼の周りに漂っていた。



彼は、両親を事故で亡くしたばかりだった。初めての家族旅行の帰り道、居眠り運転のトラックに真正面から追突されたのだ。車の損傷は酷く、両親は即死だった。後部座席に座っていた彼だけが、かすり傷のみで生き残ったのは、奇跡としかいいようがない。



両親が目の前で死ぬ光景を彼は見ていたのだろうか?
眠っていて、気づいたら事故にあっていたのだろうか?
そのことについては、まだ誰も彼に尋ねていない。




私は彼が好きなココアを入れた。
彼はカップを手に取り、ゆっくりと飲み始める。
「すぷーん、ある?」
彼は私を見た。ああ、そうか、彼はスプーンでココアをすくって飲むのが好きだったな。
私の姉である、彼の母親は、ココアを入れるのが本当に上手だった。丁寧に時間をかけて作られたココアは、いつも大きめのカップに注がれた。量がたっぷりあるため、彼は木製のスプーンでゆっくりすくって飲んでいたのだった。
私も姉のココアが好きだった。飲んでいるうちに、日々のモヤモヤが溶け、心がじんわりとあたたかくなる、魔法のようなココアだったから。



「木のスプーンじゃないけど、これどうぞ。」
私は、彼に銀色のスプーンを差し出した。それは、彼の誕生の時、記念に作ったから、と姉からもらったものだった。彼はそれに気づいたのか、じっとスプーンを見ていた。


「これ、うちにもあるよ。」
スプーンを私の方に見せながら、彼は言った。
「ままがみせてくれた。ぼくのうまれたおいわいだって。」
そういって、彼はスプーンを握りしめた。
そして、ぽつり、ぽつり、と話し始めた。




「ぱはとままと、おとまりうれしかったんだ。」
「うみ、おっきかったよ。」
「あのね、おさかながたくさんいるとこもいったよ。」
「ごはんもすごくおいしかったよ。」
「ぱはとままとぼく、みんなずっとわらってたの。」
「たのしかったの。」
「とっても。」



「ぼく、ないたら、たのしかったの、うそになっちゃうでしょ。」
「だから、なかないよ。」
「ぱはとままとずっとわらってるの。」
「だから、なかないよ。」
握りしめたスプーンをテーブルに置いて、彼は下を向いた。





きっと、事故にあう直前まで、彼らは笑っていたのだろう。その思い出を消さないために、彼は「泣かない」ことにしたようだった。
あまりにもつらく、悲しくて、私はどうすることもできず、ただ彼を抱きしめることしかできなかった。




3/18/2026, 5:08:29 AM