今日だけ許して
2025/10/05/18:59 書くかも
2025/10/05/20:14 書いた。長い。
今日だけ許して
「ね、お願い」
男はコテン、と首を傾げた。可愛こぶった仕草だった。下から覗き込むようにして、声色に可愛さなんぞ欠片もないくせに、自分の願いは聞いてもらって当然という、いかにもな仕草だった。
自分はそれを、少し離れたカウンター越しに見ていた。もちろん、お客様をじろじろと見つめるのは良くないため、手元のグラスに視線を落としたままではあるが。それでも視界に入ることだってある。本当にたまたまであった。
男は、黒いバケットハットを被り、パーカーにジャケットと、この場には見合わぬラフな格好をしていた。ゆったりとしたジャズと客の潜められた声、それから従業員の動く小さな音が響く場。ドレスコードはないが、それでもパーカーは浮いていた。
前に置かれたグラスに入った淡い藍色の液体が、落とされた暖色の照明によって揺らめく。グラスの縁を、つぅ……と、無骨な指先がなぞっている。しなやかとは言い難い手は、可愛さとはかけ離れている、はずだ。
それを隣の男が一瞥する。隣の男は、色の薄いサングラスをかけ、お高そうなスーツを着ていた。顔の良い人は何を着ても良く見えるため、高いと思うのは見当違いかもしれないが。それでも、ラフな格好よりは、この場に合った雰囲気を纏っていた。
「……はぁ」
「ダメ? 今日だけだってば」
「……いや、しかしだな」
「今日だけだよ、ほんとに。許してくんない?」
しばらくそんな応酬をして、スーツの男は大きなため息を一つ溢した。一瞬の沈黙が、酷く重たかった。そして、男は億劫そうに口を開く。
「……今日だけだ」
「わーい」
パーカーの男は、喜びからか声をワントーン上げたが、棒読みがそれを台無しにしていた。男はそれを見て、三度目のため息をついていた。この男は、何度それを見て、許してきたのだろう。
「ただし、条件がある」
スーツの男が、冷たく固い声で言い放った。氷を削る前の、白く冷たいだけの塊みたいだった。
「いいか? ウチには手を出すな。俺個人と関わるのはこの際許す。だが、それ以外は辞めろ。俺もお前も面倒なだけだ」
わかるな? と、今度は存外優しい音が転がる。
「わかってるって」
パーカーの男は、前に置かれたグラスを傾け、こくりと飲み干した。前から少しずつ飲んでいたらしい。空のグラスを軽く置く。
「ね、もう一杯。願いの対価だ、安いだろ?」
「対価なら払うのはそっちだろう。それは対価じゃない、我儘って言うんだ」
「わがままじゃない、取引だよ」
バケットハットで隠れているはずの目元だけが、笑っている。その目がこちらを見ている。咄嗟に目を離そうと、グラスを拭う手元に意識を集中させた。
嫌な予感だった。この業界では、こういうことがたまにある。底なし沼に片足を突っ込んだような、繋がっていない橋に行きかけるような、そんな感覚。あの二人組がそういうことに関わっているのかはわからない。ただ、これ以上知ってしまうのは良くないことだと、漠然と感じた。
10/5/2025, 10:00:33 AM