《巡り逢い》
長い栗色の髪が揺れる度に、花の匂いのする人だった。
優しくて、悲しいくらいにあたたかい人。
誰もがみんな彼女を愛したし、誰もがみんな彼女に救いを求めた。
「聖女様」
そう呼ばれていた彼女は、長引く戦争に疲弊した人々にとって希望の光であり、女神へカティアの降臨された姿ではないかとも言われる程だった。
少なくとも彼女の手当を受けた者は皆、女神が遣わした使徒にでも見えただろう。
その美貌は戦場に在ってもなお光を失わず、微笑み一つで負傷者の心に安堵感を広げていった。心に傷を負い閉ざしてしまった者であっても、彼女の瞳に見つめられると息を吹き返したかのように光を取り戻すのだ。
手や服が血で汚れてしまうことを厭わず、生きてほしいと願いながら彼女は治癒の魔法を掛ける。
どんな重篤者であっても見捨てず、呼吸が安定するまで必ず手を握って相手の生を望む。
近くで新たな戦禍が広がろうと目の前の人たちをぎりぎりまで救い続け、休む間もなく次の負傷者の下へ向かうのだ。
敵も味方も何もなく救護を待つ人々を前に、一秒も無駄にはできない。優先順位だけがそこに在って、切り捨てるべき存在などいない。
彼女にとっては、どれも等しく命でしかないのだから。
なるほど、彼女は聖女であった。
「聖女様」
まだ十代半ば、本来であれば穏やかに暮らしていられる筈の彼女がどうして戦場だった場所に居るのか。いや、そこで救命活動を続ける必要があるのか。
それは、彼女が珍しい治癒魔法に適正の有る魔法使いであるということに他ならない。
この国では火、水、土、風の四属性のうちいずれかに適性が有る者が八割と多い。そのためこの四つを基本属性と呼ぶ。それに対して、光や闇、治癒などの属性を特殊属性と呼ぶ。
自身の適性は、数えで十になった年に教会で診断を受ける儀式にて知ることができ、結果は教会にて厳重に保存される。
貴重な治癒魔法の適正者が見つかると、自動的に教会から国へと報告義務がなされる。
そして十日と掛からないうちに命を受けた使者が訪問するのだ。
これは立派な、国からの——ひいては君主からのもので、家族の意見はもちろん当人の希望によって、戦場へ赴き治療に奔走するかどうかを選択することができる。
「わたしにできることがあるなら、いきます」
当時、十歳になったばかりの少女はそう答えた。
国も将来的な選択肢としての話をしただけで、何も今すぐにというわけではなかった。だが、当人はその気である。
彼女の両親とも相談し、結果成人として認められる十五歳から、ということに落ち着いた。
そのため、治癒魔法に適正が有る彼女は、特殊な環境下に身を置くこととなったのだ。
「私にできることをするだけ。だから、苦しくもないし逃げたいとも思わないわ。心配してくれてありがとう」
かつて後悔はないのかと聞かれた時、彼女はそう答えた。
きっと聖女と崇められるような人でも心の弱いところは有る筈だ、なんてわかった気になっていたことが恥ずかしかった。
彼女は強く、美しく、正しく聖女様だった。
だから、どんな状況に陥ろうとも誰かのために治癒魔法を展開する彼女の姿は想像に難くなかった。
何十回目に赴いた戦地であったのか。
氷に閉ざされた場所で、終わりは訪れる。
片足は戦禍に巻き込まれ見るも痛々しく、魔法の過度な使用によるものか血が涙のように零れ、凍えそうな程寒いの場所でびっしりと汗をかいた手を震わせる。裂傷は全身に刻まれ数え切れない程。
強さも、美しさも、あたたかさも何も感じられない醜い聖女様の姿がそこにはあった。
他の救命活動に勤しんでいた人たちも、突然現れた小隊によって殺された。敵だったのだろう、狙われたのは初めてではなかったが、あまりにも強く恐ろしかった。
散り散りになってしまったから、誰が生き延びたのかもわからない。
それでも、彼女は、諦めてなどいない。戦場を歩き回り、少しでも息の有る者を探したのだ。
しかし、どこへ行っても死体が野ざらしになっているだけだ。
紫や藍の混じった空が白んできて、体力の尽きかけた頃に死体の折り重なる場所へ辿り着いた。
そして、死体に隠れるようにして横たわる青年を見つけたのだ。
青年は片目が潰れていて、腹部からは大量に血を流していた。足は凍り付いていて動かない。失血による気絶だろうか、彼女が接近しても目は閉じたままだった。
助かる見込みがないのは、素人目でも明らかな大怪我だった。
にも関わらず、彼女は自身の怪我よりも青年の怪我を治そうとした。
「おね……がい、生きてっ……死なないで……!」
懸命な治療が功を奏したのか、青年は目を開く。
ぼんやりとした片方だけの視界が、初めて見る女性と朝焼けの空とで埋められていることに気付き、目を見張った。
「なんっ……痛っ、て、」
「動かないで、ください……今、治しますから、ね?」
少しでも安心させようとしたのか、彼女は微笑んでみせた。
目から血を流していようが、髪が乱れていようが構わない。まさしく、普段の彼女の微笑みであった。
「……聖女、様? どうして、ここに……」
「痛かったでしょう……苦しかったでしょう……ごめんなさい。もっと、早く……気付けていたら……」
「オレは、オレは敵の筈だっ……! どうして、助けるなんてことを」
「どうでもいいの、そんなこと。あなたが目の前で怪我をしていたから、それだけよ」
聖女は命を選ばず、ただひたすらに生を望む。
近隣国で流れている噂は、嘘ではなかった。そう、今このときになって青年はそれを知ったのだ。
「あなた……味方は、今居ないでしょう」
「……そこにくたばってる奴らがそうだった」
腹部からの出血は治まり、違和感を覚えて手を当てると傷がなくなっている。
聖女の実力は本物だった。
「……なら、お願いがあるの。私……私が死んだことを誰にも言わないで、ほしいの」
「……あんた」
「私は……失踪したことにしてほしい。お願い、死んだことがわかったら、悲しませてしまう人がいるの」
「だったら、オレを助けなければいい。それか、命を救う条件にすればいいだろ」
「私があなたを救うのは……自己満足。あなたのためには、ならない、から……」
そう言って聖女は、手を下ろす。
青年の傷は完全に癒されていた。だが、いかんせん体温の低下が激しいためこの場に留まっていては、やがて死んでしまうだろう。
「……わかった。命の恩人なのは変わりないからな、あんたのお願いは聞いてやる」
「本当? ありがとう……! お願い、します……」
「けど、恩人が死ぬのを見捨てて行くのは寝覚めが悪い。オレは勝手にあんたを連れて行くぞ」
「……え?」
動揺する彼女を抱え込み、立ち上がる。
「自分で自分に使えるんだろ、魔法。オレは治癒じゃなくて火に適性があるから、とりあえずここから離れて火を起こそう。魔法を使いすぎているのか、体力も回復する必要があるな。火を起こしたらそこで少し休むか。一旦、オレは離れたら寒さを凌げそうなものを探してくるから、」
「待って、待って下さい……! 私は気にせず、」
「寝覚めが悪いんだって、言っただろ。聖女様、あんたが勝手にオレの命を救ったんだ。オレにあんたの命を救わせろ。……実際に魔法を使うのは聖女様自身なんだけどな」
少し決まりが悪そうに呟くと、動揺する彼女を無視して歩き出した。
「……あの、本当に、言って」
「る! から、諦めて生きようとしてくれ。オレは、あんたにも生きていて欲しい」
「……! ……そう、ですか」
「そうだ」
誰かを生きさせようとした聖女は、最後の最後に自分自身の命を捨てようとした。
それを拾ったのが、彼女を襲った国の兵の一人であり、彼女に救われた青年だった。
——この戦いを機に聖女様は行方不明となった。
だが、少ししてひとつの噂が立った。
他国のある村長の花嫁が、聖女様と瓜二つなんだそうだ。
その真偽を知る者はおらず、ただ、その夫婦は運命的な出会いを果たしたことだけが周知の事実である。
4/25/2025, 10:16:33 AM