春爛漫を見逃して今年の一番舞台の春に会えなかった。気づけば燦々と太陽が唸っていて、僕はそれに当てられて耳を塞ぐような夏。
「聞こえたくないことばっか聞こえてきて耳が腐りそうだよ」
美術室に僕と二人きり。真っ白な絵の具で描いた入道雲が夏の主張をしてくる。あまりの猛暑に皮膚がジリジリと泣き喚く。蝉すら婚活なんてできずに、生殖よりも生命維持が働きかけている。だからかやけに静かな昼下がり。君が腰掛ける出窓に下がる風鈴は柄無しだ。この一角は校舎の影が触れていて、涼しげに野良猫が腹を出して眠っている。その腹をふんわりと撫でるその細い手は、泣きたくなるほどに優しいことを知っている。
冷房の効かない美術室は茹だるような暑さ。
ぽそり話しかけてくる君の横顔。頬に汗が伝って涙のように見えたのか、そうじゃなくてもっとも別の意味でなのか、自分の感覚を分析する気にもなれない。ただただ、泣いてないのに泣いてるみたいだ。
でも彼はもしかしたらいつも、出会った時から、そうだったかもしれない。
僕らの名前を呼ぶ大声が近づいて、焦るべきだろうけどぼーっと滲む汗に染みる黒眼を揺らすだけだ。やがて遠ざかっていって、何事もなく風鈴が涼しげな音で語りかけてくる。
授業中の廊下はやけに静かで、この大嫌いな学校も憂いで僕らのざわめきを宥めてくる。
「二番目だったか三番目のオカアサンが言ってたんだよ…あれ、実母の方だったかな…まぁどうでもいいけど、“少数の人が生きづらいんじゃなくて気にするから生きづらいんだよ”って言われたんだ」
「本当に腹が立ったよ」
彼は言葉を零して床に落とす。それはひんやりと浸透して床を伝って僕の足先を冷えさせる。
忙しい時に限って嫌なこと思い出して沈められてる。
いつだったかどうしてだったかは思い出せないのに、嫌だけ縁取ってしっかり思い出す、どうでもいいようなことが刃渡り何センチかも分からないナイフで突き刺さって引っ張っても取れない。
「…今日はいい天気だね」
大きな窓枠に縁取られる青は広大な空だって知ってる。青空が映る僕の黒眼を横目で見据えた彼は哀しそうに、笑った。
何だかどうでもいいなんて言葉も浮かばないほどに、重すぎる現実と裏腹にどこか軽い。
現実逃避に逃げていて、現状はもうとっくに見ていないのかもしれない。
彼も僕もそうなんだろう。
随分と低く飛ぶ飛行機の轟音が上から響く。
ポタポタと床に落ちて染みる汗の音。
絵の具の匂いが鼻腔に漂う。
汗でベタつく肌は日焼け止めの臭いがする。
僕なんてどうせどんな強い感情も持てない。
ぼんやりと浮かぶ何かを掴まえて、足りない語彙と思い浮かばない社会価値に未熟な表現方法で台無しにして他人に伝える。価値があるかなんて以前に、せっかく生まれた可能性を自分で潰しちゃう。そんな、残念なこと。
あぁ、これからどう生きればいいんだろう
こんな静寂の中ふと脳裏をよぎって通り過ぎる。
僕らきっと色々考えすぎたんだ。
考えなくていいことばっか考えて、キャパオーバーを迎えたんだ。
これまでもこれからも黒い血を浴びずとも、僕ら常に雨に打たれてる。
全ての卑しい葛藤を手放すきっかけを模索して成長していくはずだった。
けどやっぱり、咲く咲かない以前に、芽を出せば摘まれるようなことばっかで。不満は募る。理由すら呆れる程どうでもいい「みんな足並み揃えて」の一言で。そんなにも重要なことなのか、分からなくて、考えて、分からなくて、考えて、ずっと、考え続けた。それは理不尽を飲み込めなくて発狂しそうな感情を抑えるために理論や理性で押さえ付けていて、冷静な平静な、そんな人間を装った。にこにこした表情の裏には殺意すらある。
酷使した理性はほんの小さなカケラになるまでになって、ふと小さなヒビが入っただけで一瞬で崩れてチリになって、風に吹かれて消えた。それは彼の理性なのか僕の理性なのか、そんなの言わずともお互い気付けばそうだった。気付けば足がもつれて顔から転げて、隣の彼の顔を見れば何故か笑みを浮かべていて、彼の眼には困惑の色がゆらゆらと蠢いていて、そこに映るのは彼と同じく笑顔を浮かべる僕だった。それだけ。
だから今ここにいて、この後先生に見つけられて、怒られて、親に報告されて、怒られて。そういうの適当に思い浮かぶけど、そもそも全てがもう要らない。
ただ今はこうしているだけで精一杯だ。
道なんてなくて一歩も踏み出せないから。
リスキーな冒険や旅なんてするほどアドレナリンに慣れていないから。
鮮やかで甘酸っぱな、青い春なんてものなんかじゃないけど、
僕らずっと前から夏に恋してる。
口になんて言葉になんてこそしないけど、僕はそう思ってるよ。
春が過ぎ去って、甘さやキツさの花の香りも名残惜しいなだなんて呟く余裕もない程で。空気に溶け込み、合わせ言葉として使えば、薄れていく残り香すら嗅いでなかったくせになんて思った。
暑さに思考も感情も全てを朦朧とさせて欲しさに水を飲まずにただ唸り声の下で泣いている。
3/28/2025, 6:24:36 AM