白糸馨月

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お題『麦わら帽子』

 憧れの灯台守がいた。そのひとは、いつもつばが広い麦わら帽子を被っていた。
 背が高くて、筋肉質で、黒い髪は短くて、眉は濃いのにどうしてか僕はその人を見て、「きれいだな」と思ってしまった。
 背筋が伸びた立ち方のせいか、筋肉のつき方がきれいだからか、今考えるとそういった理由は思いつくがその頃の僕はただ「きれいだな」という感想しか抱かなかった。
 そのひとはいつも僕に海の中に住む人魚の話を聞かせてくれた。海の中は、たくさんの魚と人魚が共生してて、立派なお城だってある。南の海のサンゴ礁はきれいだとか、冷たい北の海だと鳥も泳いだりするとか。
 だけど、人魚に男は存在しないという話を聞かせてくれた時、その人はどうしてか悲しそうな顔をしていた。ただとなりにいることしかできなかった。
 
 最後に会ったのは、二十年前の大雨で津波が来るかもしれない時だった。両親からは家にいなさいと言われたが、僕は灯台守が心配になって外へ出てしまった。
 大雨に打たれて、強風に抗いながらどうにかたどり着いた場所で灯台守は立っていた。
「ねぇ、お兄さんもはやく戻ろうよ!」
「ごめん、そうはいかねぇんだ」
 灯台守は悲しそうに笑うと被っていた麦わら帽子を僕に被せてきた。
「すまねぇが、俺ぁちょっと戦ってくる!」
「え? たたかうって?」
「この海を荒らしてる悪い奴がいるんだ! そいつは凄まじく強い。俺はここに戻れないかもしれねぇ!」
「そ、そんなの嫌だよ。絶対帰ってきて!」
 帽子をおさえながら僕は泣いた。そしたら、お兄さんが笑って
「そうか。お前、俺のこと待っててくれるんだな。じゃ、その麦わら帽子、預けておく。またな!」
 僕の頭を麦わら帽子ごしになでると、お兄さんの姿が変わっていく。着ている服が破れて、足は魚の尾びれに、背中に背びれが生える。それから間もなく、海に飛び込んだ。
 僕は必死にお兄さんの名前を呼んだけど、帰ってこない。やがて、僕を探しに来た父によって家に連れ戻されてしまった。
 それからしばらくして、雨と風がやみ、もとの穏やかな海に戻ったけど、灯台守のお兄さんが帰ってくることはなかった。

 今の僕は灯台守として、住み慣れた街の海を見続けている。頭に被っている彼から貰った麦わら帽子はもはや僕のトレードマークだ。背は、あの頃のお兄さんよりすこし伸びて、筋肉だって日頃からきたえているおかげで、お兄さんよりずっとごつくなってしまった。
 平和な日常のなかで、僕は灯台守をしながらお兄さんを待ち続けてるようなものだなと思う。
 ある時、灯台の近くで水面から顔を出している人魚に遭遇した。女性の人魚ならたまに会うが男性の人魚は珍しい。
 その人魚はまだ子供で、髪が黒く短く、するどい背びれが生えて、群青の尾ひれをしている――まるで、それはあの時僕が見たお兄さんの本当の姿そっくりだった。
 僕と目が合うと、その人魚は恥ずかしそうに水面に潜ろうとした。
「まって!」
 走ってその人魚を呼ぶ、あやうく飛び込みそうになる。人魚はちら、と僕を見ている。
「君、お兄さんとすこし話をしないかい?」
 我ながら口説いているようだと思う。だけど、いてもたってもいられなかったんだ。
 人魚は僕をすこし見つめた後、頰を赤らめながら嬉しそうに笑った。見えたとがった八重歯がお兄さんを彷彿とさせて、僕もなんだか嬉しくなった。

8/12/2024, 3:07:22 AM