小鳥貴族

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 大きな理由なんてない。「海がいい」と夜に思ったからで、海に思い出があったり、好きな場所だったりしたわけじゃない。些細なことだった。「最近生活習慣が乱れてきたな」とか、「隣人の騒音がストレスだ」とか、そういった小さな不満が重なって爆発しただけだ。近くの自殺スポットがないから好きな場所で死のうと思った。目の前に黒い世界が広がっている。この先に死が待っているというのに心は落ち着いていた。「遺書は書いてないな、書いたほうがいいのか?」なんて悩みながら一歩踏み出そうとした瞬間、聞き覚えのある音がした。鈴の音だ。咄嗟に振り向くと、いつも餌をあげている猫がいた。いつの間にか現れた、どこの家の猫なのかも分からない。それでも、必死におねだりしてくるのが可愛くて、餌をあげていたら懐いてきた。この猫との時間が生き甲斐だった。もしこのまま死んでしまったらこの猫はどうなるのだろう?飼い主が餌をあげない人だからあの猫は餌をねだってきたのではないだろうか。だったら死ぬわけにはいかない。黒い海にそっと背を向け、猫を抱いた。この猫が来なくなるまで生きようと思ってしまった。

                     『夜の海』

8/15/2023, 3:49:12 PM