60.『最後の声』『まだ見ぬ世界へ』『夏の気配』
玄関から出ると、巣にいたツバメの雛がいなくなっていた。
天敵に襲われたかと不安になるが、隣にいた亭主によると今朝早くに巣立ちしたとのこと。
七月に入り夏の気配が濃くなってきた今日この頃。
今日みたいに天気のいい日は、たしかに旅立つにはちょうどいい
まだ見ぬ世界に胸を躍らせて巣立つツバメ。
それがかつての娘と重なる。
一年前の今頃、社会人になった娘は家を出た。
県外の会社で働くことになり、近くにアパートを借りて住む事になったのだ。
若いツバメと同じように、新しい世界に希望を抱き家を飛び出す娘。
家を出る時の最後の声は、とても弾んでいた。
そして仕事が充実しているのか、今日まで一度も帰って来なかったが……
とんだ親不孝者である。
しかし、その娘が今日帰って来る。
結婚を約束した恋人と一緒に。
歳を取り、たいていの事は動じなくなったと思っていたが、まさかここまで心をかき乱されるとは。
一週間前に帰って来ると連絡があったが、それ以来気が気でない。
今だって、到着予定の時間にはまだ早いのに、いても経ってもいられずこうして玄関に出ている。
まだかまだかと待っていると、ふとあることを思い出す。
いつかテレビでみたのだが、ツバメは寒い場所が苦手だから、冬を暖かい場所で過ごすらしい。
そして暖かくなると、かつて育った巣に里帰りするという。
まるで娘のようだ、と私は思う。
娘も寒さが苦手であった。
冬になると、ストーブの前から動かなかなくなる。
毎朝学校に送り出すのは一苦労だった。
そういえば娘が勤める会社もはるか南の方。
仕事が忙しくて帰れないと言っていたが、本音では寒いのが嫌で戻ってこないのではないかと邪推する。
これは、返ってきたら問いたださないといけない。
私はひそかに決意する。
「来たぞ」
亭主の声に、私は顔を上げる。
視線の先で、娘と男性が肩を並べて歩いていた。
娘は大きく手を振っており、隣にいるのはおそらく恋人だろう。
真面目そうな人だが、さてどうだろう?
こっちも確かめないといけない。
やることが山積みだけど、その前に言うことがある。
「おかえりなさい」
私の声を聞いた娘はニコリと笑い――
「ただいま!」
娘は里帰りした子ツバメのように、生まれ育った家に駆け込むのであった。
7/4/2025, 12:42:25 PM