春の終わり、花壇の土はまだ少し冷たかった。
四年二組の
モンシロチョウ
みたいに落ち着きのない風に、白い花びらが揺れていた。
「なんで私がやらなきゃいけないの……」
佐倉ひなのは、じょうろを両手で持ちながら小さくため息をついた。
担任の先生に「しばらく花壇係お願いね」と言われたのは、ほんの三日前。
本当は放課後なんて、友達と帰って、アイスでも食べていたかった。
なのに毎日、校庭の端っこの花壇。
夕陽。
湿った土の匂い。
濡れたスニーカー。
「お姉ちゃん、そこ、かわくよ」
突然、後ろから声がした。
振り返ると、小さな男の子が立っていた。
まだ制服もぶかぶかで、名札には「朝倉 湊」と書いてある。
一年生だった。
「……別に、お姉ちゃんじゃないし」
「でも四年生でしょ?」
湊は笑った。
その笑顔は、白い蝶みたいにふわっと軽かった。
次の日も、彼は来た。
「お水、ぼく持つ」
「重いよ?」
「へーき」
全然へーきじゃなかった。
じょうろを抱えたままふらついて、危うく転びそうになっている。
「ちょ、貸して!」
ひなが慌てて支えると、湊は嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
ありがとうを言いたいのは、こっちなのに。
それから毎日、二人は花壇にいた。
最初はただの暇つぶしだった。
でも、気づけばひなは放課後を待つようになっていた。
湊は、なんでも楽しそうに話した。
校庭で見つけた四つ葉のクローバー。
給食のプリン。
空の雲がクジラに見えたこと。
小さいくせに、変に大人びた顔をするときもあった。
「ひなちゃんは、海すき?」
「え?」
「ぼく、海行ってみたい」
その願いは、夏休みに叶った。
ひなの母が車を出してくれて、四人で小さな海へ行った。
湊は波を怖がりながら、それでも笑っていた。
「しょっぱい!」
「海なんだから当たり前でしょ!」
二人でびしょ濡れになって笑った。
秋にはゲームセンター。
冬には映画館。
水族館では、クラゲを見ながら湊が言った。
「死んだら、こんなふうに漂うのかな」
「なにそれ、気持ち悪い」
ひなはそう言って笑ったけれど、胸の奥がざわついた。
湊は、病気だった。
重い心臓の病気。
それを知ったのは、クリスマスの少し前だった。
病院の白い廊下で、ひなは偶然聞いてしまった。
「次の冬を越せるかは……」
大人たちの声は小さかったのに、世界が壊れる音みたいに響いた。
どうして。
どうして、この子なの。
ひなは病室に入れなかった。
泣きそうになる顔を見られたくなくて、廊下の椅子に座り込んだ。
しばらくして、扉が開いた。
「ひなちゃん」
湊だった。
点滴をつけたまま、それでも笑っていた。
「……来てたんだ」
「うん」
「ねえ」
彼は窓の外を見た。
冬空を、一匹の
モンシロチョウ
が飛んでいた。
季節外れの、弱々しい蝶。
「ぼくね、一年だけでよかった」
「なにが」
「ひなちゃんと遊べたから」
その瞬間、ひなの中で何かが壊れた。
「よくない!」
思わず叫んでいた。
「一年じゃ足りないよ……! 全然足りない……!」
涙が止まらなかった。
湊は少し困った顔をして、それから静かに笑った。
「でも、ぼく、すごく楽しかった」
春になる前、湊は亡くなった。
二年生の教科書は、一度も開かれなかった。
葬儀の日。
ひなは泣かなかった。
泣いたら、本当に終わる気がしたから。
数日後、学校の花壇へ行った。
去年植えたパンジーが咲いていた。
じょうろを持つ手は、少しだけ大人になっていた。
水を撒いていると、白い蝶が一匹、花の上に止まった。
ひなは小さく笑った。
「……また手伝いに来たの?」
蝶は答えない。
ただ春の風に揺れて、空へ飛び立っていった。
5/10/2026, 1:36:57 PM