陽葵

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#忘れられない、いつまでも

「この人は誰だっけ…」

「お母さん、どうしたの…」

「え、どうしたってどういうこと…?」

「ううん、何にもないよ」

母が、父のことを忘れた。

半年前、突然倒れた父。
仕事先で倒れて、そのまま帰ってくることはなかった。

悲しみに暮れる私とは違い、
恐ろしくなる程に母は冷静だった。

いや、冷静じゃないと
自分を保つことができなかったんだ。

葬儀が終わると、母は抜け殻のようになった。

仏壇の前に座り、静かに泣いている。
それが最近の日常だった。

なのに、誰なんて。

怖くなって病院へ行った。
結果は何もなかった。身体は健康だった。
でも、心を守るために
悲しみをなかったことにしたかったのかもと
精神科の先生が言った。

娘の私が恥ずかしくなるくらい、でも羨ましいくらい
両親は今も愛し合っていたと思う。
そんな2人が最期の別れを告げられないまま
離れ離れになった。

父がいなくなって悲しいけれど、
父を忘れてしまった母を見る方が悲しかった。

1人でまた病院を訪れた。
母に思い出してほしい。
でも抜け殻のような母は見たくない。
「先生、私どうしたら…」

「傍にいてあげたらいいと思うよ。
 無理に思い出すのはきっと身体にも負担がかかる。
 あなたがいることがきっとお父さんを思い出す1番の
 きっかけになるんじゃないかな。
 2人が愛し合ったから、君がいるんだから。
 でも、君も自分を大切にね」

母と一緒に旅行へ行った。

駅から歩いて20分。
潮の匂いと、目の前に広がる青い海。

「見て!めっちゃ綺麗だね!」
久しぶりに来る海に、当初の目的を忘れて感動する私。

いつも絶対返事をしてくれる母からの声がない。
なんだか怖くなって母の方を振り返ると、 
静かに涙を流す母の姿があった。

「お母さん、どうしたの…」

「ごめん、私大事なこと忘れてたね…」

「…っ、お母さん…」

「私の両親、あなたのおばあちゃん、おじいちゃん
 まだ元気でしょ…?
 親を亡くす悲しみって分からなくて…。
 お父さんを亡くしたあなたに心配かけたくなくて、
 でも余計に心配かけたわね…」

「心配かけてよ…。一緒に悲しもうよ…。
 お父さんいなくなって悲しかったよ。
 でも、お父さんのこと大好きだったお母さんが
 いなくなることの方が悲しかった…」

「…っ、ごめんね…」

「ねえ、聞かせてよ。お父さんとの思い出。
 ここ初デートの場所だったんでしょ?」

「なんで知ってるのよ…」

「お父さんから散々聞いたのよ。
 お母さんがいかに可愛かったのか」

「もう、あの人は…っ」

「お母さんからの話も聞きたいな。
 私が2人の思い出全部覚えておくね」

「お父さんみたいなこと言うのね。
 いいわよ、あの人と出会った時ね…」

そう言って母は父との思い出を話し始めた。
父を思う母の顔は、娘の私が見ても素敵だった。

お母さん、あのね。
高校生の時、私お父さんとここに来たことあるんだ。
今みたいにお父さんにも思い出話してもらったの。

その時のお父さんの顔、とっても素敵だったんだ。
帰ったら、その写真見せてあげるね。

見つからないように、そっと。
恥ずかしそうに話す母の横顔を写真に残す。

2人の横顔と、潮の匂い。目の前に広がる青い海。
思い出話も、ここでの私の思い出も。
いつまでも忘れないよ。忘れられないよ。

5/9/2026, 12:36:18 PM