蓼 つづみ

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遠くの街へ行こうか。
地図には載らない。
昼間は存在すら疑われる。
けれど夜が、世界の輪郭を少しだけ緩めたとき、
ひと筋の路地が、ふっと現れる。

そこを曲がれば、
硝子雨の降る街だ。

列車は音もなく走る。
車輪の響きはやわらかく、
窓の外はまだ灰色。
朝になることを、世界が逡巡している時間。

隣で、君は少しだけ疲れている。
「綺麗なものなんて、もう見飽きた」
そう呟く声は、投げやりで、でも誠実だ。

わかるよ。
飾られた美しさは、ときに刃になる。
光は、眩しすぎると刺さるから。

けれどあの街では、
綺麗なものは上から降り注がない。
誇示も、演出もない。
足元から、滲む。

硝子雨は、硝子ではない。
水でもない。
それは、光の欠片。

落ちても砕けず、
弾んで、転がり、
夜道を散歩する小さな星のように
人の歩みに寄り添う。

その街の人々は、
たいてい少し疲れた顔をしている。

声を荒げない。
誇らない。
ただ、黙って歩いている。

でも硝子雨が降ると、
足元の光が、
その人が今まで我慢してきたことや、
誰にも言えなかった優しさを
静かに映し出す。
小さく瞬く。

ある夜、
ひどく疲れた旅人が迷い込む。
「もう、何もきれいに見えない」
そう零しながら。

けれど一歩踏み出すと、
靴に、袖に、肩に、
硝子雨がやさしく跳ねる。
光は言葉を持たない。
けれど、確かに伝える。

――こんなに耐えてきたんだね。
――こんなに静かに、やさしく、生きてきたんだね。

旅人はしゃがみこむ。
夜道の星屑のなかで、
初めて、小さく緩んだ。

「そうか……こんなふうに見えるのか。」

硝子雨は、夜明けとともに消える。
朝は、容赦なくやってくる。

けれど一度でも
光に照らされた心は、
忘れない。
自分が、
どれだけ砕けずにきたかを。

遠くの街へ行こう。
それは逃避ではなく、確認だ。

君が、
もう充分すぎるほど
静かに、美しく、生きてきたという事実を
思い出すための旅だ。

列車はもうすぐ着く。
降りるかどうかは、
君が決めればいい。

私はただ、
夜の路地が開く瞬間を、
隣で一緒に見ている。

題 遠くの街へ

2/28/2026, 11:04:22 AM