紅月 琥珀

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 はじめに感じたのは優しい花の香り。次に感じたのは両手に触れる土の感触。
 その違和感に瞳を開け、起き上がると―――美しく咲き誇る花々が、視界いっぱいに広がっていた。

 美しい花々と奥の方にある立派な木々。花々と果物とでエリアが分けられているのか、それぞれ一纏めにされており、舗装された道を挟むように、或いは人が通れるように植えられていた。
 一体ここは何処なのだろうか?
 私はこんな所に来た覚えがなく、困惑していた。
『こんにちは、お客人。本日はどの様なご要件でこちらに?』
 突然後ろから声を掛けられて振り返ると、そこには白いワンピースに藍色のボレロを着た女性が立っている。
 私はその人に今の状況を説明すると、一度驚いた表情をしてから彼女は笑う。
『成る程、お客人の状況は理解しました。ですが、ここは迷い込める場所ではありませんので、何かご縁があったのでしょう。1つお客人の話をお聞かせ下さいませんか?』
 そう言うと、こちらへどうぞと私を案内する彼女に、とりあえずついて行く事にした。
 数多の花々が咲く中を歩いていくと、満開の大きな桜の木の下におしゃれなテーブルと2脚の椅子が置かれており、そのテーブルの上にはティーセットが並べられている。
『さぁ、どうぞお座り下さいお客人。ここに来る前のあなたに何があったのか、お聞かせ願えますか?』
 彼女は私が座るのを確認してから紅茶を出して、私が話し始めるのを静かに待っていた。
 少し呼吸を整えて―――ここで目覚めるまでの事を思い出そうと記憶を辿る。
 そうして昨日の記憶から彼女に話していった。
 昨日は大切な結婚式だった事。でも、その日彼と親友に裏切られて式はめちゃくちゃになった事。2人に嘲笑われて侮辱されて酷く惨めに感じて、ドレスを着たまま会場を出て当てもなく走っていた所で記憶が途切れている事を伝えた。
『成る程、事情は分かりました。お客人がここに招かれた理由も察しがつきましたので、早速取りかかりましょう。』
 そう言うと彼女は指を鳴らした。すると彼女の背後から執事と思しき初老の男性が出てきて、こちらにお辞儀をする。
『じいや、先程の話は聞いたわね? 私は彼女を例の場所に連れて行かなければならないの。だから今回はあなたが特別なものを見繕って頂戴』
 そう指示するとじいやさんは、畏まりましたと言い、何処から取り出したのか分からなかったが⋯⋯彼女にバスケットを渡すとまたお辞儀をして一瞬で消えてしまった。
 私が驚いているのも気にせず、彼女は席を立つと私について来るように言い、歩き始める。私も席を立ち彼女に続く。
 先程歩いていた花々の道ではなく、果実畑の方面へ向かっているようで、少しずつ美味しそうな果物がなるエリアに近づいていく。
 そしてある果物の前で1つもぎ取り、また歩いては1つもぎ取るというのを何度か繰り返した辺りで、一際大きいリンゴの木が見えてくる。
 その下にあるテーブルまで案内されると、また座るように促された。
 そして籠の中に入れられた果物を、彼女は丁寧に一口サイズに切りお皿に乗せてフォークと共に私へと差し出した。
『どうぞ、お食べください。
 こちらから、パッションフルーツ、ミネオラタンジェロ、水晶文旦、グレープフルーツ、三宝柑、さがほのか、ダナー、ざぼん、さちのか、タンゴール、スターアップル、香緑、愛ベリー、晩白柚、ネーブルオレンジ、バナナハート、栃乙女、福羽いちご、麗紅、ブラックベリー、ミズレンブ、章姫、金柑、橙、女峰になります。
 それから、こちらがベルガモットジャム入りパッションフラワーティーです。
 今の貴方に必要なモノを取り揃えておりますので、お皿の上のモノと紅茶は完飲完食してください。』
 私はまだ何も理解は出来ていなかったけど、彼女の言う通りに出された果実を食べた。
 口に入れた瞬間、今まで食べていた果物は何だったのかと思ってしまう程の味だった。
 食べる度に程よい酸味だったり甘みだったりを感じ、個々の果物そのモノの味がとにかく美味しくて、気付いたら無くなっていた。
 合間に飲んでいたベルガモットジャム入りパッションフラワーティーも香りが良く、ほんのりと渋味を感じるもののジャムの優しい甘さで心が安らぐのを感じる。
 最後に紅茶を飲み終えてゆったりとしていると、別行動していたじいやさんが花束を持って現れた。それを私に差し出すので反射的に受け取ってしまう。
『それも今の貴女に必要なものです。
 見たところ⋯⋯バラのピンク、紫、青、オレンジにコチョウランの白とカスミソウ・すずらん・ライラックの紫にミモザ・ブルースター・アネモネの白とスイートピーの白、紫にスターチスの紫、白、ピンクですか。
 成る程。確かに今のお客人に合う花々ですね。これなら送り出せそうです』
 彼女は静かに席を立つと私に手を差し出した。その手を取るとエスコートされるまま彼女と歩いていく。
『そう言えば、ここの事を話していませんでしたね。
 ここは人々の希望の花園。秘匿された永遠の庭なのです。
 清らかな魂を持つ方のみが導かれる場所。お客人に必要なものを与え、代わりにあるモノを頂く決まりになっています』
 そう言われて私はハッとする。あれほど美味しい果物とお茶を出されたのだから、きっと高いに違いない。でも、今の私は鞄も何も持っては居なかった。
 どうしようかと思っていると彼女は不思議な事を口にする。
『ご安心下さい。金銭などは求めません。私達はお客人の持つ心の種を1つ頂きたいのです。
 それは貴女の承諾さえあれば自動的にここに置いていかれますので、どうか不安に思わないで下さい』

『心の種とは、人の心の奥底に眠る希望の種。誰もが持っておりますが、どんな花を咲かせるのかは人それぞれ。枯れてしまう方々もおりますが、そういう方はここには来れません』
 あまりにも不思議そうな顔をしていたのか、彼女は私が質問する前に追加で説明してくれた。
 そうしてたどり着いた綺麗な花のアーチがかかった道。その奥には荘厳な門がある。
『さぁ、お客人。お帰りの時間ですよ。
 貴女には貴女の帰る場所があるのです。
 貴女のことを必要とする人もまた、たくさんいる事を忘れてはいけませんよ。
 貴女を愛する人を愛しなさい。そして、日々感謝の気持ちを忘れずに、これからの人生を楽しんで下さい。
 貴女に花々の祝福が有らんことを』
 彼女は笑顔でそう言うと、私の手を離し門の方へと軽く背を押した。
 私は彼女にお礼を言うと、一歩ずつ踏み締めるように門へと進み―――そして門に手を添えて押し開けると、外へと歩み出た。


 目が覚めるとそこには白い天井があり、横から規則正しい機械音が聞こえてくる。
 私は起き上がろうとするが、上手く動けず声すらも出ない。ただ目だけは動かせる状態に、どうしたものかと思案していたら、誰かの叫ぶ声が聞こえて⋯⋯バタバタと忙しなく動く音が聞こえてくる。
 そして、次に視界に入ったのは⋯⋯泣いているお母さんだった。

 あの日私が飛び出した後、走っている途中で気付かずに道路へと飛び出してしまったらしく⋯⋯轢かれて2週間程、昏睡していたそうだ。
 怪我が治ってから事故を起こさせてしまった運転手さんに謝りたくて、両親に頼んで会わせてもらい謝罪をさせてもらった。
 それから、1年半程経った今。私はもう一度ウェディングドレスを着ている。
 あの時と同じ式場で、あの時と同じドレスを着て―――あの日幸せになるはずだった悲しい思い出を、塗り替える為にあえてそうした。
 式場のスタッフさん達も優しい方ばかりで、あの時の事も事故の事も凄く心配して下さって、謝罪しに来たのにこちらが気遣われてしまった。だからこそ、憧れのこの場所でもう一度やり直したいと思えたのかもしれない。
 控室で出番を待つ私の傍らには、あの日夢で貰った花束が置かれている。
 目覚めた時に抱えていたらしく、それから枯れる事なくずっとその美しさを誇っている不思議な花束。
 あの夢が何だったのかは未だに分からないけど、ただの夢では無いことだけは確かなのだ。
 花園の主とのやりとりは今でも鮮明に覚えている。お守りとして、この花束を持ち込んだのはその為。これがあれば、彼女にも私が幸せになったことを伝えられるような気がしたから。

『あの時、背中を押してくれてありがとう』
 永遠の花束にそう小さく呟くと、私は迎えに来たスタッフさんと共に控室を後にした。

2/4/2025, 4:59:22 PM