鏡の森 short stories

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#002『帰る場所』
現代/ややFT

 春は出会いと別れの季節、らしい。近々必要になるからと、滅多に着ないスーツを出し入れするご主人にくっついてクローゼットを出たり入ったり。荷物の隙間がほどよい塩梅で、気に入らない客が来た時にはここにこもると決めていた、のだが。
 つがいを見つけたご主人が別の家に移るとかで、居心地のいい狭い隙間が妙な具合に広がってしまった。また別の場所を探さなくてはいけない。
「さくらー。さくらー?」
 散らかった段ボール箱で遊んでいたら、階下からご主人の呼び声が聞こえた。
 にゃーん、と階下にも聞こえるくらいの鳴き声で応え、階段を駆け降りていく。
「今日はもう行くね。近いから、またすぐに来るからね」
 すでに靴を履いた足もとにすり寄り、ぞんぶんに匂いをつけ直す。ここではないどこかで、別の匂いにすり寄られてしまわないように。
「あんた、もう行くって、二階ひどい状態じゃない!」
 入れ替わりに二階へ上がった母親の声に、ご主人はごめーん、と舌を突き出した。
「犯人はさくらだよー。ねー」
 とんだ濡れ衣と言ってやりたいところだが、ご主人にひょいっと抱き抱えられてうれしかったので、ゴロゴロ言って聞き流すことにした。
「ごめんねー、さくら。旦那がアレルギーじゃなかったら、マンションでも連れて行けたのになぁ」
「連れて行ったって、あのマンションじゃさくらには狭いでしょ。はいはい、二階は片付けておくから、さっさと帰りなさいな」
 ご主人を追い払うその手がこちらに伸びてきたので、しぶしぶご主人を離れて移る。物分かりのいいふりも楽じゃない。
 ご主人の新しい住まいはマンションと言って、狭いらしい。狭い場所は好きなのだが、連れて行ってはもらえないようだ。
 抱える腕を蹴って飛び降り、玄関を出るご主人の足にもう一度じゃれついた。
 外は危険だと言うから、出てはいかない。
 代わりに、いつでもここにいる。

《了》
お題/ここではない、どこかで
2023.04.16 こどー

4/16/2023, 11:50:14 AM