すゞめ

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『言葉にできない』

 俺は今、猛烈にムラムラしている。

 見せつけているつもりはなかった。
 彼女と結婚にいたった今まで、ふたりだけの暗黙のルールにしていたわけでもない。

 それでも、彼女と交際を始めて以降、昔から習慣となっていた爪の手入れの頻度が上がっていたのは事実だった。
 彼女は人の機微に聡いほうではないが、人のことをよく見ている。
 だからだろう。

「今日、す、する……つもり、なの……?」

 リビングのローテーブルにケア用品を広げて爪やすりを当てていた俺に、風呂をすませたらしい彼女は声を震わせて問いかけてきた。
 明確に言葉にしたことはないが、俺がハンドケアをしているときは性行為の合図として結びつけていたらしい。

 恥ずかしがり屋な彼女が、羞恥心でしどろもどろになりながらも、普段なら絶対言葉にできないことをストレートに問いかけた。
 ただでさえムラついているのに、風呂上がりの蒸気をまとった彼女の顔を見られるはずがない。
 是が非でもこの場で組み敷いてしまいそうだった。
 いじらしい彼女の姿が見られないのはもったいない。
 それでも、これも彼女のためだと自分に言い聞かせ、俺は俯いたままうなずいた。

「しますよ」
「……っ」

 俺の言葉に、彼女の体に緊張が走った。
 気がする。

 …………最悪だ。

『あなたが許してくれるのであればしたいです。いいですか?』

 本来、口にするべき言葉と本音を思いきり間違えた。

 欲しいからといって、小さな彼女との体格差を利用して、己の欲のまま熱をぶつけたいわけではない。
 余裕なんて全然ないが、彼女を傷つけたり怖がらせたいというわけではなかった。

 しかし、吐露した言葉を今さら取り消すことなどできない。
 ヘタなごまかしが効く相手ではないし、取り繕ったところで彼女と熱を分かち合いたいことには変わりないのだ。
 失言を訂正せず、そのままヤスリで爪を削っていくと、彼女はおもむろに俺の隣に座る。

 ふわりと柔らかく香るシトラスに、息を飲んだ。

 は?

 こっちがどんな気でいるのかも知らずに……。
 今すぐにでも襲ってやろうか。

「あ、あの」
「なんです?」
「私にも、……して、ほしく、て……」

 緊張感を隠さぬまま、彼女はそう言って俺の太ももの上に両手を添えた。
 このタイミングで言葉足らずな彼女の言動に、ゾワゾワと熱が滾っていく。
 暗に、爪を整えて欲しいと言っているのは理解できた。
 理解はできたが、無防備にもほどがある。

 俺は思わずヤスリがけしている手を止めて、天を仰いだ。

「……」

 おっっっっかしいな!?
 失言だったとはいえ、俺、さっき「する」って言ったよなっ!?

 そもそも、その前に、だ。

「あなたの爪は昨日、整えたばかりですよ?」
「そ、そう、……なんだけどっ」
「なら、ヤスリがけは必要ないでしょう」
「だって、最近ずっと……、れーじくんの背中、傷つけてばっかりじゃん。私」

 ああ。
 なるほど。

 爪やすりでのケアが苦手なはずなのに、いじらしく手入れをねだってきた理由にガッテンがいった。
 彼女と籍を入れた今もなお、彼女はいまだに俺の体に行為の形跡を残すことを嫌う。
 雑な彼女が入念に爪のケアをする理由が、俺のためであることに悪い気はしなかった。

「ちょっとでいいから、お願い」

 彼女の顔を視界から逸らし続けているのがバレたのか、あざとい言い回しであざとく視線を送ってくる。
 ヤスリがけを終えた俺はハンドクリームを取り出して、手のひらに馴染ませた。

「……今日は聞けません」
「どうして」

 どうもこうもあるか。
 太ももに添えられたままの彼女の小さな手に目を向ける。
 右手の親指と、中指、そして、左手の人差し指と中指の爪先の成形の跡が俺の施したものと違っていた。
 しっとりと潤った手の甲には、既にハンドクリームも塗られている。
 どのタイミングで削ったのかはわからないが、彼女は自分で手をつけていた。
 しかも左手は少し深爪になっている。
 セルフケアとしては十分のはずだし、なんならちょっとやりすぎだ。
 大変遺憾まである。

「その時間でさっさとあなたをぐちゃぐちゃにしたいからです」
「最低」
「…………すみません」

 くっっっそ!!??

 今日の俺の口はマジで理性を廃棄しているらしい。
 理性をこそぎ落とされていく甘ったるい空気を少しでも変えたくて、「どうせ毎日のケアをねだるなら、歯磨きにしてくれませんか?」と、ふざけるつもりが台無しだ。

 あまりにも明け透けな本音に、さすがの彼女の気も変わってしまっただろうか。
 チラリと彼女を盗み見た瞬間、俺はたまらずに彼女の細い頸を引き寄せて唇を奪った。

 ここにきてその顔はズルすぎるだろっ。

「ぅ、ん……」

 彼女の歯列や上顎といった口内を堪能したあと、ゆっくり唇を離した俺は彼女と額を合わせ、鼻先を擦り寄せる。

「今、自分がどんな顔してるか、わかってます?」
「…………、知らない……」
「俺の好きな、すっげえかわいい顔してます」
「なにそれ」
「恥ずかしくてたまらないのに、今から俺に抱かれる心積りはできている真っ赤になった顔ですね」
「バ、バカッ!」

 俺から逃げようとする彼女の体を抱き寄せて、もう一度、深く口づける。
 浅くなる彼女の呼吸音や、溢れる声に、本当に我慢の限界が近づいてきた。

「傷でも噛み跡でもなんでもつけてくれていいので、とにかく、早くあなたをください」
「やっ、……っ」
「そんなにイヤです?」

 頑なな彼女のペースに、よくつき合っていられるなと自分でも思う。
 ここで彼女をなし崩すことは簡単だが、それをしない理由はただひとつだ。
 できることなら爪のことなど忘れて、俺で思考も視界もいっぱいにしてほしい。

「だって。れーじくんを傷つけたら、絶対に明日の私が許せないもん……」

 なんだそれ。
 理由までかわいいな。

 だが、それならなんの問題もない。
 俺は口角が緩んでいくのを感じながら、熱を孕んだ瑠璃色の瞳を覗き込んだ。

「なら、明日の俺が明日のあなたを絆してみせますから、ね?」
「約束」
「ええ。約束します」

 彼女の言葉に、食い気味にうなずく。
 物言いたげに訝しみ、眉を寄せる彼女の表情には笑ってごまかすことにした。

「早くベッドに行きましょう?」

 ようやく絆された彼女を立たせたあと、俺も立ち上がる。
 既に蕩けている彼女の瞼にキスを落として、俺たちは寝室に向かった。

4/12/2026, 6:24:47 AM